『三国志』武帝紀本文を読んでみよう:その1

今度は『三国志武帝紀の本文を読んでみようと思う。


「本文」というのは、いわゆる裴注は敢えて入れない方向にするという事。



必要に応じて注その他も参照はするが、一緒に見ていく事はしない。




もしかすると、こうする事で見えてくるものもあるかもしれない。


ないかもしれないし、見えなくなるものもあるかもしれないが。






太祖武皇帝、沛國譙人也、姓曹、諱操、字孟徳、漢相國參之後。
桓帝世、曹騰為中常侍・大長秋、封費亭侯。
養子嵩嗣、官至太尉、莫能審其生出本末。
嵩生太祖。
太祖少機警、有權數、而任俠放蕩、不治行業、故世人未之奇也。惟梁國橋玄南陽何顒異焉。玄謂太祖曰「天下將亂、非命世之才不能濟也、能安之者、其在君乎!」
年二十、舉孝廉為郎、除洛陽北部尉、遷頓丘令、徴拜議郎。
(『三国志』巻一、武帝紀)


魏の太祖武皇帝。いわゆる魏武である。


曹騰字季興、沛國譙人也。
安帝時、除黄門從官。
順帝在東宮、鄧太后以騰年少謹厚、使侍皇太子書、特見親愛。及帝即位、騰為小黄門、遷中常侍
桓帝得立、騰與長樂太僕州輔等七人以定策功皆封亭侯、騰為費亭侯、遷大長秋、加位特進。
騰用事省闥三十餘年、奉事四帝、未嘗有過。其所進達、皆海内名人、陳留虞放・邊韶・南陽延固・張温・弘農張奐・潁川堂谿典等。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、曹騰)


曹騰は宦官。当時の中常侍や大長秋は基本宦官の官職なので、これらの官に就いていたという時点で宦官という事が分かるのである。

(曹)嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬、故位至太尉。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、曹騰)


金で三公を買った人物としても有名な曹嵩が養子であるというのは、曹騰が宦官であった事からも事情が察せられる。だがわざわざ「莫能審其生出本末」と記されているという事は、例えば曹騰の甥やらが後継ぎになったわけではなさそうだ、という事になるのだろう。




魏武は若い頃から知恵が働き権謀術数に長けていて、それでいてアウトローな生活を送っていたのだという。


金持ちのボンボンというよりは不良息子という感じだろうか。



彼を認めた橋玄というのは、息子が人質になった時に官憲に人質を気にせず犯人を攻めろと言った人物。



何顒字伯求、南陽襄郷人也。
少遊學洛陽。顒雖後進、而郭林宗・賈偉節等與之相好、顯名太學。
友人虞偉高有父讎未報、而篤病將終、顒往候之、偉高泣而訴。顒感其義、為復讎、以頭醊其墓。
及陳蕃・李膺之敗、顒以與蕃・膺善、遂為宦官所陷、乃變姓名、亡匿汝南閒。所至皆親其豪桀、有聲荊豫之域。袁紹慕之、私與往來、結為奔走之友。
是時黨事起、天下多離其難、顒常私入洛陽、從紹計議。其窮困閉戹者、為求援救、以濟其患。有被掩捕者、則廣設權計、使得逃隠、全免者甚衆。
・・・(中略)・・・
初、顒見曹操、歎曰「漢家將亡、安天下者必此人也。」操以是嘉之。
(『後漢書』列伝第五十七、党錮列伝、何顒)

そして何顒は友人のために自分の仇ではない人物を殺してやったり、宦官たちと事を構えて逃亡生活を送ったり、お尋ね者でありながら洛陽で袁紹らと反政府活動めいた事に従事していたような人物である。



魏武は宦官の孫でありながら、宦官と対立していたはずの立場の者と懇意にしていたという事になる。



それと「漢家將亡、安天下者必此人也。」ってよく読むととんでもない事を言っている。これを喜んだという事は、その頃の魏武も漢は滅びそうになっている、誰か別の者が天下を治めなければ、と思っていたという事になるのではないか?




そんな生活を送っていたくせに20歳そこそこで首都である洛陽県の北部尉に就任する。これはかなりのエリート街道なのであろう。