放伐も可

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『魏氏春秋』)

後漢末、魏王曹操夏侯惇からの天子への即位の進言に対し、「もし自分に天子となる天命があるというなら、私は周の文王となろうではないか」といったようなことを答えたのだという。



夏侯惇への返事の全文が載っているわけではないだろうが、そうだとしても上記内容によるならば、今の自分に即位のつもりがないことと、「天子になる天命があるとすれば周文王と同じようにする」という意志を示したことは間違いない。



諸侯聞之曰「西伯蓋受命之君」
(『史記』巻四、周本紀)

周の文王は殷の紂王に幽閉されたりハンバーグを食わされたり(比喩)といった過酷な仕打ちに遭いながら、支持を失う殷の紂王に対して諸侯の幅広い支持を受けるようになった人物であり、「受命の君」つまり天子となる天命を受けた人物と目されるようになっていたらしいが、彼の間に殷が滅ぶことはなく、子の武王が殷の紂王を滅ぼして天子になるのだった。



曹操は「自分の代で天子になることはない」と同時に、「次の代には天子になるだろう」との意味を込めていたと解釈できるだろう。




それと同時に、殷から周への王朝交代は、周の武王による殷の紂王討伐、つまり「放伐」によって行われていることにも注目すべきかもしれない。



もしかすると、曹操は次の代や自分の臣下たちに対して、「漢の皇帝が殷の紂王のように天子の座にしがみつくのであれば、周の武王がそうしたように「放伐」すべきである」との意味も込めていたのではないか?



少なくとも、「自分は周の文王」=「次の代は周の武王」の先に、「漢の皇帝は天命を失った殷の紂王」も連想させるような発言であり、更なる裏を読む者からすれば、殷から周への王朝交代がどうやって行われたのか、すぐ思い当たることだろう。




実際には「放伐」ではなく「禅譲」であったが、これは曹操による「素直に帝位を譲らないなら力づくで行け」という遺命の存在があったからこそ、漢の皇帝(献帝)サイドもそうするしかなかった、といったところだったのではないだろうか?