延康と初始

劉備孫権も、献帝禅譲した後も「建安」の年号を使っていた。
魏への禅譲を否定し、まだ漢の時代は続いているという主張なのだろう。


しかし、良く考えてみると献帝は建安二十五年に「延康」に改元している。
劉備孫権は共に献帝の命令によるものであるはずの「延康」改元も魏への禅譲と一緒に否定しているのではないか。

これはどういうことだ。



以居攝三年為初始元年、漏刻以百二十為度、用應天命。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は平帝死後、幼児の孺子嬰を立てて自分は皇帝代行という地位に納まっていた。
そんな中、いよいよ本当の皇帝の座に就こうという寸前、「初始」なる年号に改元した。

これは事実上は王莽による禅譲革命の予告のようなものであり、改元も当然王莽一派の差し金であることは明らかである。



もしかしたら、劉備孫権陣営では、献帝の「延康」改元は王莽時代の「初始」改元を模倣した「禅譲セレモニーの一部」みたいな扱いを受けていたのかもしれない。