呉頃王

詔曰「蓋聞帝王以徳撫民、其次親親以相及也。昔堯睦九族、舜惇敘之。朕以皇帝幼年、且統國政、惟宗室子皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後、漢元至今、十有餘萬人、雖有王侯之屬、莫能相糾、或陷入刑罪、教訓不至之咎也。・・・(後略)・・・」
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始五年)


王莽の時、詔で「宗室(皇族)はみな高皇帝(高祖劉邦)か呉頃王・楚元王の子孫である」という表現がある。



「楚元」は明らかに高祖劉邦の弟である楚元王劉交である。


そして「呉頃(王)」というのは文脈から見て劉邦の兄劉喜のこととしか思えない。つまり、劉喜は息子の呉王濞と同じ「呉王」ということになっていたことになる。




昨日の記事の引用では劉喜は「代頃侯」なる諡号を贈られたとされているが、これは当初は「代頃侯」だったが、どこかの段階で「呉頃王」にクラスチェンジした、ということだろうか?