前漢

高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。 長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。 (『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡) 晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろう…

ひとこと

t-s.hatenablog.com 以前の記事で謎の「黄帝調暦」なるものを奉じていたという張寿王なる者の話をしたことがある。 この女性天子がいたり暦の長さが二倍だったりするワンダラスな暦、どっかから出土するとかして全容が分かったりしないものだろうか。 どんな…

ひとこと

t-s.hatenablog.com これ書いた後に思ったが、「系統としては黄帝の末裔」「マジカル出生秘話を持つ」という点で、殷と周と漢(劉邦の母のマジカル懐妊)は共通してるんだな。 少なくとも漢代の人々は殷や周の建国神話に劉邦のそれを被せてるんだろうなあ。

部下の心境

於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長檥船待、謂項王曰「江東雖小、地方千里、衆數十萬人、亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船、漢軍至、無以渡。」項王笑曰「天之亡我、我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西、今無一人還、縱江東父兄憐而王我、我何面目見之?…

三等分の花嫁

漢宣帝世、燕代之間有三男共取一婦、生四子。及其將分、妻子而不可均、乃致爭訟。廷尉范延壽斷之曰、此非人類、當以禽獣處之。禽獣從母不從父也、請戮三男子、以児還母。 宣帝嗟歎曰、事何必古。若此、則可謂當於理而猒人情也。 延壽蓋見人事而知用刑矣、未…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

人材登用

侯霸字君房、河南密人也。族父淵、以宦者有才辯、任職元帝時、佐石顯等領中書、號曰大常侍。成帝時、任霸為太子舍人。 (『後漢書』列伝第十六、侯覇伝) へえ、後漢初期の侯覇の族父の侯淵は元帝の時の宦官、石顕の部下だったのか。 『急就』を著したという…

血筋

元年四月乙巳、侯富元年。 三年、侯富以兄子戎為楚王反、富與家屬至長安北闕自歸、不能相教、上印綬。詔復王。後以平陸侯為楚王、更封富為紅侯。 (『史記』巻十九、恵景間侯者年表、休侯劉富) 休侯劉富は甥の楚王(劉戊)が反乱したときにみずから印綬を返…

ブダペスト

太后留(劉)歆為右曹太中大夫、遷中壘校尉、羲和、京兆尹、使治明堂辟雍、封紅休侯。典儒林史卜之官、考定律暦、著三統暦譜。 (『漢書』巻三十六、劉歆伝) かの王莽の腹心劉歆は「紅休侯」に封建された。 初、休侯富既奔京師、而王戊反、富等皆坐免侯、削…

寿良

又詔「太師王匡・國將哀章・司命孔仁・兗州牧壽良・卒正王閎・揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬衆、迫措青・徐盜賊。・・・(後略)・・・ (『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇四年正月) 王莽の時の兗州牧に「寿良」という者がいたらしい。 東郡。秦置。…

共通点

漢の成帝を産んだ元后こと王氏(元帝王皇后)の出身は「魏郡元城」。 孝元傅昭儀、哀帝祖母也。父河内温人、蚤卒、母更嫁為魏郡鄭翁妻、生男惲。昭儀少為上官太后才人、自元帝為太子、得進幸。 (『漢書』巻九十七下、外戚伝、孝元傅昭儀) そのライバルとも…

幻の列侯

是歲廣饒侯劉京・車騎將軍千人扈雲・大保屬臧鴻奏符命。 京言齊郡新井、雲言巴郡石牛、鴻言扶風雍石、莽皆迎受。 十一月甲子、莽上奏太后曰「陛下至聖、遭家不造、遇漢十二世三七之阸、承天威命、詔臣莽居攝、受孺子之託、任天下之寄。臣莽兢兢業業、懼於不…

王莽時代の列侯

『漢書』外戚恩沢侯表などを見ていると、それまで列侯は一応地名に沿った名(「宜陵侯」「長平侯」のように)なのだが、平帝つまり王莽の時代になると急速に「扶徳侯」「広陽侯」「明統侯」といった、嘉名や何らかの意味を持たせた名の列侯が増えてきている…

ひとこと

昨日の記事で前漢の王吉が廃止を訴えた「任子」とは任官法だが、一方で『三国志』などでは「任子」を「人質」の意味で使っていることが多い。 これは用法が変わったというより、任官としての「任子」も「太守などの高官の子弟を皇帝の近くに呼び寄せ、太守が…

王氏三代

(王)吉意以為・・・(中略)・・・又言「舜・湯不用三公九卿之世而舉皋陶・伊尹、不仁者遠。今使俗吏得任子弟、率多驕驁、不通古今、至於積功治人、亡益於民、此伐檀所為作也。宜明選求賢、除任子之令。外家及故人可厚以財、不宜居位。去角抵、減樂府、省…

3つの姓

煮棗侯乗昌為奉常。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、景帝中三年) 煑棗端侯革朱 ・・・(中略)・・・ 孝景中二年侯昌嗣。二年、有罪、免。 (『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、煑棗端侯革朱) 景帝の頃、「煮棗侯」が奉常となったが、『漢書』百官公…

降嫁

(王)吉意以為「夫婦、人倫大綱、夭壽之萌也。世俗嫁娶太早、未知為人父母之道而有子、是以教化不明而民多夭。聘妻送女亡節、則貧人不及、故不舉子。又漢家列侯尚公主、諸侯則國人承翁主、使男事女、夫詘於婦、逆陰陽之位、故多女亂。古者衣服車馬貴賤有章…

二文字名禁止令

立故東平王雲太子開明為王、故桃郷頃侯子成都為中山王。封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。太僕王惲等二十五人前議定陶傅太后尊號、守經法、不阿指從邪、右將軍孫建爪牙大臣、大鴻臚(左)咸前正議不阿、後奉節使迎中山王、及宗正劉不惡・執金吾任岑・中郎將…

二人の距離感

『漢書』高帝紀つまり高祖劉邦の本紀には、劉氏は元は魏の人間で、梁の方にいたのだという話がある。 一方、項羽は自分の領土として梁の地を併合したらしい。だから梁を根城とした彭越が項羽と戦っているのだ。 劉邦の故地と、項羽の本拠地(にしようとした…

大河郡

濟東王彭離立二十九年。彭離驕悍、昬莫私與其奴亡命少年數十人行剽、殺人取財物以為好。所殺發覺者百餘人、國皆知之、莫敢夜行。所殺者子上書告言、有司請誅、武帝弗忍、廢為庶人、徙上庸、國除、為大河郡。 (『漢書』巻四十七、文三王伝) 東平國。 故梁國…

忠孝侯の正体

(王)莽欲依霍光故事以女配帝、太后意不欲也。莽設變詐、令女必入、因以自重、事在莽傳。太后不得已而許之、遣長樂少府夏侯藩・宗正劉宏・少府宗伯鳳・尚書令平晏納采、太師(孔)光・大司徒馬宮・大司空甄豐・左將軍孫建・執金吾尹賞行太常事・太中大夫劉…

忠孝侯

太常常山張顥為太尉。 【注】 顥字智明。搜神記曰「顥為梁相、新雨後、有鵲飛翔近地、令人擿之、墯地化為圓石、顥命椎破、得一金印、文曰『忠孝侯印』。」 (『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、光和元年三月) 後漢霊帝の時の太尉張顥は、カササギを打ち落とした…

不遇な人生

(永始二年)十二月、詔曰「前將作大匠(解)萬年知昌陵卑下不可為萬歲居、奏請營作、建置郭邑、妄為巧詐、積土增高、多賦斂繇役、興卒暴之作。卒徒蒙辜、死者連屬、百姓罷極、天下匱竭。常侍(王)閎前為大司農中丞、數奏昌陵不可成。侍中衞尉(淳于)長數…

翁主と郷主の間に

封王氏齊縗之屬為侯、大功為伯、小功為子、緦麻為男、其女皆為任。男以「睦」、女以「隆」為號焉、皆授印韍。 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建國元年正月) 王莽の時、皇室である王氏の女性の称号は「任」といったらしい。 後に王莽は侍女に産ませて隠…

翁主

齊厲王、其母曰紀太后。太后取其弟紀氏女為厲王后。王不愛紀氏女。太后欲其家重寵、令其長女紀翁主入王宮、正其後宮、毋令得近王、欲令愛紀氏女。王因與其姊翁主姦。 【注】 索隠、按、如淳云「諸王女云翁主。稱其母姓、故謂之紀翁主」 (『史記』巻五十二、…

近所の獄掾

平陽侯曹參者、沛人也。秦時為沛獄掾、而蕭何為主吏、居縣為豪吏矣。 (『史記』巻五十四、曹相国世家) かの曹参は沛の獄掾で、蕭何ともども「豪吏」であったそうだ。 項梁嘗有櫟陽逮、乃請蘄獄掾曹咎書抵櫟陽獄掾司馬欣、以故事得已。 (『史記』巻七、項…

地元に戻る

項羽は「下相の人」とされているが、この下相というのはどうやら秦においては泗水郡にあった県らしい。 で、劉邦のいた沛というのも秦の泗水郡にあった。 ちなみにあの垓下も泗水郡にあったらしい。ついでに言うと劉邦が大敗した彭城もそうだったようだ。 つ…

若き猛将

季布弟季心、氣蓋關中、遇人恭謹、為任俠、方數千里士皆爭為之死。嘗殺人、亡之呉、從袁絲匿。長事袁絲、弟畜灌夫・籍福之屬。嘗為中司馬、中尉郅都不敢不加禮。少年多時時竊籍其名以行。當是時、季心以勇、布以諾、著聞關中。 (『史記』巻一百、季布欒布列…

隠される夏侯氏

傳至曾孫(夏侯)頗、尚平陽公主、坐與父御婢姧、自殺、國除。 初嬰為滕令奉車、故號滕公。及曾孫頗尚主、主隨外家姓、號孫公主、故滕公子孫更為孫氏。 (『漢書』巻四十一、夏侯嬰伝) あの夏侯嬰の孫は公主(皇帝の娘)と結婚したが、その公主は自身の母方…

九卿の別名

曹操の魏国では、漢における九卿の大司農を大農、廷尉を大理、太常を奉常、執金吾を中尉といった風に呼んでいた。 漢王朝の方の同じ職務の官と区別する意図だったのかもしれないが、少府や衛尉は漢王朝も魏国も同じ名前だったようなので、少々中途半端な気も…