前漢

違和感

太史公曰、夏之政忠。忠之敝、小人以野、故殷人承之以敬。敬之敝、小人以鬼、故周人承之以文。文之敝、小人以僿、故救僿莫若以忠。三王之道若循環、終而復始。周秦之閒、可謂文敝矣。秦政不改、反酷刑法、豈不繆乎?故漢興、承敝易變、使人不倦,得天統矣。…

微言

劉備って伝の冒頭で「儒学学んでたけど不真面目でイッヌやウッマが好きでした」って書かれてるけど、これは漢王朝をある程度知っている人からすれば*1「中興の祖と言える漢の宣帝と似たような経歴じゃないか!」って思わせる内容なんだと思う。 明言せずとも…

新たな諡法

漢王朝の初代皇帝劉邦は「高皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「高」は従来の諡法になかった字なのだとか。 また、孫呉の初代皇帝孫権は「大皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「大」もそれまでの諡法では見かけなかった字であるように思われる。…

ひとこと(奉常)

漢の九卿の一つに「太常」というのがあるが、もとは「奉常」であったとされる。 「奉常」が「太常」になった真相って、「奉」がよく「泰」に間違われて半ば定着したところに、更に「泰」が「太」に通じる、ということで「奉常」→「泰常」→「太常」に変わった…

ひとこと

中国の「金氏」というと漢武の時の「金日磾」(匈奴だった)が有名だが、ほかにも武帝の母の最初の夫である「金王孫」というのもいる。 つまり「金日磾」の一族ではない「金氏」もいたことになる。 有名になった「金日磾」系の「金氏」だと自称していただけ…

曹氏の由来

そういえば、この話の後にふと思ったが、劉邦の先祖は戦国魏の出だとされているんだった。 その劉氏と同郷の曹氏も同様に、「邾に封建された黄帝の末裔」ではなく戦国魏と関係が深い家なのだ、というのが高堂隆の主張だったりして。 というか、そもそも曹参…

ひとこと(昨日の続き)

そういえば、劉邦の最後の戦いで、死去の原因とも言う英布(黥布)との戦いの場も実は沛のあたりなんだった。 劉邦は挙兵も最大のライバル項羽との決戦も最後の戦いも、全部生まれ故郷の沛近辺だったことになるのか?

ひとこと

少し思ったが、劉邦の出身の沛、項羽の本拠となった彭城、項羽と劉邦の決戦の地となった垓下、これらは驚くほど近くにあるんだな。 また項羽時代にはこのあたりは全て項羽の支配下になっていたはずなので、項羽は5年もたたないうちに2度も本拠に攻め込まれ…

項羽の計算

昨日の魏三分の話だけど、項羽が取る範囲と元の魏王である西魏王魏豹の間に、元は趙将という殷王司馬卬を挟んでいるの、なかなか計算された配置かもしれない。 魏豹が失地回復を図ろうと項羽を攻撃しようとしても、間に殷王司馬卬がいるから直接攻撃はしにく…

魏三分の計

項羽の時代(数年しかないが)、本の魏地は西魏王魏豹、殷王司馬卬に分割されたと『史記』秦楚之際月表は言っていたと思うが、これ実は項羽も魏地の一部を併合していて、魏は二分じゃなくて三分されていたんじゃないのか? 西魏王は後の河東郡あたり、殷王は…

ひとこと(項羽と魏)

昨日の記事の後に思ったが、項羽は魏王豹から梁の地を奪ったことで西楚の隣国である西魏王(魏王豹)の離反を招き、梁の地を支配しようとしたことで彭越に悩まされることになったんじゃないだろうか? 梁の地を巡って項羽は自ら足元の混乱を招いたんじゃない…

項生

丁寬字子襄、梁人也。初、梁項生從田何受易、時寬為項生從者、讀易精敏、材過項生、遂事何。 (『漢書』巻八十八、儒林伝) 前漢の梁に「項生」という儒者がいたそうな。 梁というと、かの項羽の本拠だった場所(自分の国「西楚」は梁を含んでいたらしい)。…

王夫人排斥の理由

呉主(孫)權王夫人、琅邪人也。夫人以選入宮、黄武中得幸、生(孫)和、寵次歩氏。歩氏薨後、和立為太子、權將立夫人為后、而全公主素憎夫人、稍稍譖毀。及權寢疾、言有喜色、由是權深責怒、以憂死。和子晧立、追尊夫人曰大懿皇后、封三弟皆列侯。 (『三国…

ひとこと

シルクロードの「楼蘭」、これが前漢時代の名である「鄯善」で呼ばれ続けてたら、知名度や注目度は全然違ってそうだな・・・。 なんとなく。

ひとこと

王莽が数え38歳にして三公になったというの、これたぶん当時としては異例の若さなんじゃないかなあ・・・。 霍去病みたいな例もあるから前例がないわけじゃないだろうが。 その後の董賢といい、前漢末期には「若くてイキのいい奴を三公にしてみよう」みた…

朔方刺史の管轄

右并州刺史部、郡九、縣・邑・侯國九十八。 【注】 古今注曰、建武十一年十月、西河・上郡屬。 (『続漢書』志第五、郡国志五、并州) 是歳、省朔方牧、并并州。 (『後漢書』紀第一下、光武帝紀下、建武十一年) 昨日言及した朔方刺史についてだが、後漢初…

ひとこと

そういえば、先日の記事で前漢末の時点で「交州刺史」と書かれていたが、実際にはその時点だと「交阯刺史」のはずだな。この時点では「交州」ではなかったと思う。まあ王莽が何かしていた可能性もあるかもしれないが・・・。 あと今でいうオルドスのあたりに…

王莽時代の交阯太守

初、平帝時、漢中錫光為交阯太守、教導民夷、漸以禮義、化聲侔於延。王莽末、閉境拒守。建武初、遣使貢獻、封鹽水侯。 (『後漢書』列伝第六十六、循吏列伝、任延) 魏興郡、本漢中西城縣。哀平之世、縣民錫光、字長冲、為交州刺史、徙交阯太守。王莽簒位、…

ふと思っただけ

又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘凡戸萬地方百里為定安公國。立漢祖宗之廟於其國、與周後並、行其正朔・服色。世世以事其祖宗、永以命徳茂功、享歴代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」 (『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建国元年正月) そういえば、…

元皇帝の処遇

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年) 又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘、凡戸萬、地方百里、為定安公國。…

補足のひとこと

武郷谷の話はあるものの、姜維らの例を考えると、諸葛亮も琅邪国武郷県の侯とする方が自然で、武郷谷は諸葛亮の功績に報いるために、遥任だけでなく実質的な侯国も与えたとみなした方が良いでしょう。https://t.co/J5LTtgv0kr— Jominian (@Jominian) 2022年1…

宛の李氏と安衆の劉氏

李軼後為朱鮪所殺。更始之敗、李松戰死、唯(李)通能以功名終。永平中、顯宗幸宛、詔諸李隨安衆宗室會見、並受賞賜、恩寵篤焉。 (『後漢書』列伝第五、李通伝) 『後漢書』李通伝に、後漢明帝が宛に行幸した時、宛の李氏たちに対して安衆県の劉氏たち(先…

劉宣と劉寵

初、(卓)茂與同縣孔休・陳留蔡勳・安衆劉宣・楚國龔勝・上黨鮑宣六人同志、不仕王莽時、並名重當時。 休字子泉、哀帝初、守新都令。後王莽秉權、休去官歸家。及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。光武即位、求休・勳子孫、賜穀以…

安衆侯と舂陵侯

前漢末、王莽の時に反乱を起こして宛県を攻めた安衆侯劉崇。 侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。 侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。 建武十三年、侯松嗣。 今見。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹) この安衆侯は後漢最初期に復興されてい…

武骨者の一族

舂陵侯や安衆侯らの前漢長沙王系統、かの更始帝劉玄、斉王劉縯(伯升)、反乱者翟義の親族と繋がっていた舂陵侯劉敞(舂陵侯本家)、敵討ちが原因で官吏に殺された兄の仇を討った安成侯劉賜、ガチの反乱者安衆侯劉崇など、なぜか前漢末や新の時代にやけに血…

兄の嘲笑

性勤於稼穡、而兄伯升好俠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。 (『後漢書』紀第一上、光武帝紀上) 後漢初代皇帝は農業にいそしみ、反社勢力に両足突っ込んでいた兄からは馬鹿にされていたのだ、という話がある。 t-s.hatenablog.com このあたりの話だ…

匈奴の氏

國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。 (『晋書』巻九十七、北狄伝、匈奴) 匈奴には「綦毋」氏という氏があって、武勇をもって知られていたという。 破得綦母卬・尹潘軍於無終・廣昌。 (『漢書』巻四十一、…

内政干渉

秋七月、匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝、待以客禮、遂留魏、使右賢王去卑監其國。 (『三国志』巻一、武帝紀、建安二十一年) ふと思ったが、曹操が匈奴単于を抑留して右賢王に国を監督させたという件、これは漢王朝において曹操自身がやっていたことを匈奴…

袁紹の希望

袁紹は官渡から撤退してから1年半ほどで死んでいる。 劉邦は滎陽・成皋から撤退してから1年半ほどで項羽を滅ぼしている。 こうして見ると、一度大敗したからといってもうおしまい、と断言できるようなものではないのだ、ということになるのだろう(無論、…

ひとこと

ふと思ったんだが、項羽が追い詰められた時に「四面楚歌」って言ってるけど、項羽ってもともと楚の大将の宋義を殺してるし、争った劉邦も所属は楚だったわけだし、主な敵が「楚」だった時期が長いよな。 最初からそこそこ「四面楚歌」だったんじゃないか?