前漢

魯国の丙氏

魯人俗儉嗇、而丙氏尤甚、以鐵冶起、富至鉅萬。然家自父兄子弟約、頫有拾、卬有取、貰貸行賈徧郡國。鄒・魯以其故、多去文學而趨利。 (『漢書』巻九十一、貨殖伝、丙氏) 前漢の頃、魯は吝嗇な者が多かったという。 中でも丙氏は製鉄で巨万の富を得たが特に…

董翳と董仲舒、あと董卓

昨日の記事によると、項羽が封建した翟王董翳の子孫は隴西に定住した、という。 また、董仲舒の子孫も隴西に定住したように書かれている。 とにかく、隴西の董氏は董翳や董仲舒をルーツに持ってきている事になる。 董卓字仲穎、隴西臨洮人也。性麤猛有謀。 …

董翳と董仲舒

董氏出自姫姓。黄帝裔孫有飂叔安、生董父、舜賜姓董氏。裔孫辛有、辛有子孫分適晉、有董孤。 裔孫翳、項羽封為翟王、都高奴、子孫遂居隴西。漢江都相仲舒少子之孫、自廣川徙隴西、裔孫徙河東。 (『新唐書』巻七十五下、宰相世系表五下) これ、なんか分かり…

その華麗なる系図、あるいは時空の歪み

及六卿分晉、竇氏遂居平陽。鳴犢生仲、仲生臨、臨生亶、亶生陽、陽生庚、庚生誦、二子、世・扈。世生嬰、漢丞相魏其侯也。扈二子、經・充。經、秦大將軍、生甫、漢孝文皇后之兄也。 (『新唐書』巻七十一下、宰相世系表下、竇氏) 魏其侯竇嬰者、孝文后從兄…

買う漫画

『キンとケン』、漢の哀帝と董賢が主人公という漫画。 ついに単行本になるらしい。 出た時に買い忘れないようにここに記しておく。

アイツが俺で俺は誰

中山國、高帝郡、景帝三年為國。莽曰常山。屬冀州。 (『漢書』巻二十八下、地理志下、中山国) 常山郡、高帝置。莽曰井關。屬冀州。 (『漢書』巻二十八上、地理志上、常山郡) 王莽は中山国を「常山」と改称し、常山郡を「井関」と改称した、らしい。 これ…

風評被害

中山靖王中山の李氏(李延年・李氏・李広利)中山李氏の孫の昌邑王賀 前漢の中山絡みの人たちはなんかこう性に奔放なイメージがあるというか、そういう印象で語られてしまいそうな人たちばかりだな。 李延年たちの家も一族から後宮でのご乱行が原因で滅ぼさ…

中山の李氏

昨日の中山の話の後、ふと思った。 李延年、中山人。身及父母兄弟皆故倡也。 (『漢書』巻九十三、佞幸伝、李延年) 漢の武帝が寵愛した李延年、愛妾李夫人、かの李広利の兄弟も『漢書』地理志が言うところの中山出身の「倡優」の家の出であった。 元から中…

中山の風俗

趙・中山地薄人衆、猶有沙丘紂淫亂餘民。丈夫相聚游戲、悲歌忼慨、起則椎剽掘冢、作姦巧、多弄物、為倡優。女子彈弦跕躧、游媚富貴、徧諸侯之後宮。 (『漢書』巻二十八、地理志下、趙地) 『漢書』地理志によると、趙・中山の方面は殷の紂王の遺民が住んだ…

漢の昭帝の身長

及曾孫壯大、(張)賀欲以女孫妻之。是時、昭帝始冠、長八尺二寸。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣許皇后) 漢の昭帝は身長が8尺2寸(約189センチくらいか)だったらしい。 (項)籍長八尺二寸、力扛鼎、才氣過人。 (『漢書』巻三十一、項籍伝) …

宣帝の皇后の一族

(許)后姊平安剛侯夫人謁等為媚道祝謯後宮有身者王美人及(王)鳳等、事發覺、太后大怒、下吏考問、謁等誅死、許后坐廢處昭臺宮、親屬皆歸故郡山陽、后弟子平恩侯旦就國。 (『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成許皇后) 漢の成帝の皇后許氏の姉の「平安剛…

皇后史氏

三月辛巳朔、平林・新巿・下江兵將王常・朱鮪等共立聖公為帝、改年為更始元年、拝置百官。(王)莽聞之愈恐。欲外視自安、乃染其須髮、進所徴天下淑女杜陵史氏女為皇后、聘黄金三萬斤、車馬奴婢雜帛珍寶以巨萬計。 (『漢書』巻九十九下、王莽伝下) 先日の…

魯王の外戚史氏

平臺 史子叔。以宣帝大母家封為侯、二千五百戸。衛太子時、史氏内一女於太子、嫁一女魯王、今見魯王亦史氏外孫也。外家有親、以故貴、數得賞賜。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表) かの宣帝の祖母史氏の一族史玄らは宣帝即位後に列侯となった。 『史記…

韓信の子孫、二つの系統

(韓)嫣弟説、以校尉撃匈奴、封龍頟侯。後坐酎金失侯、復以待詔為横海將軍、撃破東越、封按道侯。太初中、為游撃將軍屯五原外列城、還為光祿勳、掘蠱太子宮、為太子所殺。子興嗣、坐巫蠱誅。上曰、「游撃將軍死事、無論坐者。」乃復封興弟增為龍頟侯。 (『…

匈奴趙王について

燕王(盧)綰悉將其宮人家屬騎數千居長城下侯伺、幸上病愈、自入謝。四月、高祖崩、盧綰遂將其衆亡入匈奴、匈奴以為東胡盧王。綰為蠻夷所侵奪、常思復歸。居歳餘、死胡中。 (『史記』巻九十三、韓信盧綰列伝) 漢の高祖の功臣だった燕王盧綰は高祖に疑われ…

義渠公孫氏

將軍公孫賀。賀、義渠人、其先胡種。 賀父渾邪、景帝時為平曲侯、坐法失侯。 賀、武帝為太子時舍人。武帝立八歳、以太僕為輕車將軍、軍馬邑。後四歳、以輕車將軍出雲中。後五歳、以騎將軍從大將軍有功、封為南窌侯。後一歳、以左將軍再從大將軍出定襄、無功…

王禁の評判

陽平 王稚君、家在魏郡。故丞相史。女為太子妃。太子立為帝、女為皇后、故侯、千二百戸。初元以來、方盛貴用事、游宦求官於京師者多得其力、未聞其有知略廣宣於國家也。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表) 『史記』建元以来侯者年表は宣帝・元帝頃までの…

黄金の鷲

弓高侯韓頹当(文帝前16年) 襄成(城)侯韓嬰(文帝前16年) 安陵侯子軍(景帝中3年) 垣侯賜(景帝中3年) 遒侯隆彊(景帝中3年) 容成侯唯徐盧(景帝中3年) 易侯僕黥(景帝中3年) 范陽侯代(景帝中3年) 翕侯邯鄲(景帝中3年) 亜谷侯盧它父…

ひとこと

前漢は景帝のあたりから匈奴からの降伏者が多数列侯になっているのだが、どうも匈奴ネームのまま表記されている者と、中華ネームっぽい名前で表記されている者、どっちもいるように思える。 その違いはどこのあたりにあるのだろうか?そして、中華風ネームは…

二人の趙王

潦 以匈奴趙王降、侯。 一、(元狩)元年七月壬午、悼侯趙王煖訾元年。二年、煖訾死、無後、國除。 (『史記』巻二十、建元以来侯者年表) 漢の武帝の時に降伏した匈奴の王の中に、「趙王」というのがいたそうだ。 この時期、匈奴にも趙王がいて、漢にも趙王…

二人の帰徳侯その2

建武初、彭寵反畔於漁陽、單于與共連兵、因復權立盧芳、使入居五原。光武初、方平諸夏、未遑外事。至六年、始令歸徳侯劉颯使匈奴、匈奴亦遣使來獻、漢復令中郎將韓統報命、賂遺金幣、以通舊好。而單于驕踞、自比冒頓、對使者辭語悖慢、帝待之如初。 (『後漢…

匈奴育ちの列侯たち

『漢書』景武昭宣元成功臣表によれば、神爵3年に帰徳侯先賢撣が、五鳳2年に信成侯王定が、五鳳3年に義陽侯厲温敦が、いずれも匈奴からの降伏者として列侯に封建されている。 呼韓邪單于左大將烏厲屈與父呼遬累烏厲温敦皆見匈奴亂、率其衆數萬人南降漢。封…

匈奴の劉氏

更始至長安、大臣薦(陳)遵為大司馬護軍、與歸徳侯劉颯倶使匈奴。 (『漢書』巻九十二、游俠伝、陳遵) 王莽が滅んで更始帝政権になった時、陳遵と「帰徳侯劉颯」なる人物が匈奴への使者となった。 歸徳靖侯先賢撣。 以匈奴單于從兄日逐王率衆降、侯。二千…

高祖の子たちと呂氏

趙幽王友、十一年立為淮陽王。趙隠王如意死、孝惠元年、徙友王趙、凡立十四年。 友以諸呂女為后、不愛、愛它姫。諸呂女怒去、讒之於太后曰「王曰『呂氏安得王?太后百歳後、吾必撃之。』」太后怒、以故召趙王。趙王至、置邸不見、令衛圍守之、不得食。其羣臣…

ひとこと

漢の文帝は23歳で即位したそうだが、その時点で代王時代の后との間に男子が4人、更に後の皇后竇氏との間にも既に男子(景帝)がいた。 つまり最低でも男子5人の父だった。 しかも代王の王后はその時点で4人男子を産んでいた事になる。 出産に必要な時間…

漢の景帝の子たち

漢の景帝の男子で名が残っているのは武帝を入れて14人。 河間献王徳は「修學好古」などと言われる、一応真面目な人物だったらしい。 臨江哀王閼は早死に。 臨江閔王榮は最初の皇太子。罪があって自殺したが、元皇太子を排除しようとしたものという疑いが強…

月事

長沙定王發。發之母唐姫、故程姫侍者。景帝召程姫、程姫有所辟、不願進、而飾侍者唐兒使夜進。上醉不知、以為程姫而幸之、遂有身。已乃覺非程姫也。及生子、因命曰發。 【注】 索隠、姚氏按、釋名云「天子諸侯羣妾以次進御、有月事者止不御、更不口説、故以…

痩せすぎ

侯骨嗣、王莽篡位、絶。 (『漢書』巻十五上、王子侯表上、衆陵節侯賢) 前漢の長沙定王の王子侯となった衆陵侯劉賢の子孫で最後の衆陵侯は「劉骨」という名前であったらしい。 『漢書』王子侯表などの一覧に出てくる名はちょくちょく列伝等と異同があったり…

駆り立てるのは野心と欲望

洮陽 長沙定王子 (元朔)五年六月壬子、靖侯劉狗彘元年。 (『史記』巻二十一、建元已來王子侯者年表) 『史記』建元已來王子侯者年表によれば、長沙定王の子で列侯(王子侯)になった洮陽侯は、名を「劉狗彘」とされている。 「犬と豚」とはまたエライ名前…

ふとした疑問

かの項羽は秦を滅ぼした後、秦の地(関中)に秦からの降将章邯・司馬欣・董翳を三秦王とした。 しかし、よくよく考えてみると、秦の大将だった章邯はまだしも、その部下であった司馬欣・董翳まで王にする義理があったのだろうか? しかも、楚の懐王(義帝)…