三国

アルハラ

(孫)晧毎饗宴、無不竟日。 (『三国志』巻六十五、韋曜伝) 呉の孫晧の時の宴会は「午前様」にならなかったことがなかった、のだそうだ。 皇帝陛下の饗宴であって強制参加で抜け出す手段も無いことを考えると、人によってはかなりの苦行だったんじゃないだ…

誰が殺した周昭恭遠

周昭者字恭遠、與韋曜・薛瑩・華覈並述呉書、後為中書郎、坐事下獄。 (『三国志』巻五十二、步騭伝) 呉にいた周昭という人物は韋昭らとともに『呉書』編纂に携わったが、後に法に触れて獄に入れられ、同僚の助命嘆願にも皇帝は助けることなく、彼は死んで…

裏切りの代償

『三国志』本文においては、孫晧の父孫和の正妻が張氏だということは記されているが、その張氏が生んだ孫俊については存在がぼかされていて、「正妻が生んだ子(嫡子)がいる」ということが隠されていると思われる。 というか『三国志』孫和伝では子の存在に…

孫晧改名

孫和何姫、丹楊句容人也。父遂、本騎士。孫權嘗游幸諸營、而姫觀於道中、權望見異之、命宦者召入、以賜子和。生男、權喜、名之曰彭祖、即晧也。 (『三国志』巻五十、妃嬪伝、孫和何姫) 呉の孫晧は最初に付けられた名は「彭祖」であったらしい。 孫晧字元宗…

血は争えない

「息子たちの名を臣下が避けやすいようにする」と言っている一方で「休」という自分の名は変えていない孫休は、さすが孫権の子で孫晧の叔父だな・・・って感じがする。

ひとこと疑問

あれ?孫晧はどうも旧名「彭祖」だったっぽいけど、いつから「孫晧」だったんだろう?

ひとこと(ネタ)

同じ曹魏皇室の曹氏でも、曹洪の曹氏と、曹操の曹氏と、曹叡の曹氏と、曹真の曹氏は全部父系が違う。 中々面白い一族だ。

孫晧の本当の気持ち

孫晧即位、封高陵亭侯、遷中書僕射、職省、為侍中、常領左國史。 時所在承指數言瑞應。晧以問(韋)曜、曜答曰「此人家筐篋中物耳。」又晧欲為父和作紀、曜執以和不登帝位、宜名為傳。如是者非一、漸見責怒。 (『三国志』巻六十五、韋曜伝) かの韋曜(韋昭…

韋昭の気持ち

孫晧即位、封高陵亭侯、遷中書僕射、職省、為侍中、常領左國史。 時所在承指數言瑞應。晧以問(韋)曜、曜答曰「此人家筐篋中物耳。」又晧欲為父和作紀、曜執以和不登帝位、宜名為傳。如是者非一、漸見責怒。 (『三国志』巻六十五、韋曜伝) かの韋曜(韋昭…

孫晧の気持ち

孫晧即位、封高陵亭侯、遷中書僕射、職省、為侍中、常領左國史。 時所在承指數言瑞應。晧以問(韋)曜、曜答曰「此人家筐篋中物耳。」又晧欲為父和作紀、曜執以和不登帝位、宜名為傳。如是者非一、漸見責怒。 (『三国志』巻六十五、韋曜伝) かの韋曜(韋昭…

孫和と曹操

ふと思ったのだが、曹魏または晋で作られた(陳寿『三国志』以前の)曹魏の史書では、魏武曹操は皇帝扱いされていたのではなかろうか? 呉の孫晧はそれを理解していて、「えっ、何で?生前皇帝になってない曹操をみんな皇帝扱いしてるのに、俺の父は生前皇太…

ひとこと(孫和伝)

『三国志』孫和伝本文には孫晧以外の子の存在が書かれていないような・・・?(書かれているのは注の『呉歴』である) 同じ巻にある孫登・孫覇・孫奮の子のことは何らかの言及があるところを見ると、おそらくは意図的なものなのだろう。 『三国志』呉書の祖…

曹操と琅邪王

(劉)據立四十七年薨、子順王容嗣。 初平元年、遣弟邈至長安奉章貢獻、帝以邈為九江太守、封陽都侯。 容立八年薨、國絶。 初、邈至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此徳於邈。 建安十一年、復立容子熙為王。在位十一年、坐謀欲過江、被誅、國除。 (『…

ひとこと(死士)

例えば袁紹などは「死士を養う」などと批判されている。 この「死士」というのは思うに「主のために死を厭わず働く者」みたいな意味だと思うのだが、曹操の罪をかぶろうとしたらしい夏侯淵や、曹操の身代わりになって死んだとされる曹真の父などは、客観的に…

童子郎

(臧)洪年十五、以父功拝童子郎、知名太學。 (『後漢書』列伝第四十八、臧洪伝) 後漢の郎官には「童子郎」と呼ばれる少年の郎がいたそうな。 臧洪の場合は父(臧旻)の功績で郎になれたようだが、「太学で名を知られた」ということは童子郎になると共に専…

ひとこと(初代皇帝の人生)

思えば曹丕って建安時代は父からは何度も手ひどい言動されるわ廃嫡寸前になるわで気が休まらなかっただろうし、そんなひどい父が死んだらお家騒動寸前になるし、すぐに王朝交代をなんとかしなくちゃいけないし、皇帝になったらなったで呉をどうにかしなきゃ…

五校尉派遣

(黄初六年)六月、利成郡兵蔡方等以郡反、殺太守徐質。遣屯騎校尉任福・歩兵校尉段昭與青州刺史討平之。其見脅略及亡命者、皆赦其罪。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初六年) 黄初6年の徐州反乱に対して文帝曹丕は屯騎校尉と歩兵校尉という、皇帝直属のい…

ひとこと(昨日の補足)

魏明帝景初元年九月、淫雨過常、冀・兗・徐・豫四州水出、沒溺殺人、漂失財産。 帝自初即位、便淫奢極欲、多占幼女、或奪士妻、崇飾宮室、妨害農戰、觸情恣欲、至是彌甚、號令逆時、饑不損役。此水不潤下之應也。 (『宋書』巻三十三、五行志四、水) 昨日引…

ハイパー暴君

魏明帝景初元年九月、淫雨過常、冀・兗・徐・豫四州水出、沒溺殺人、漂失財産。 帝自初即位、便淫奢極欲、多占幼女、或奪士妻、崇飾宮室、妨害農戰、觸情恣欲、至是彌甚、號令逆時、饑不損役。此水不潤下之應也。 (『宋書』巻三十三、五行志四、水) 以前に…

羽扇

(黄)射時大會賓客、人有獻鸚鵡者、射舉巵於(禰)衡曰「願先生賦之以娛嘉賓。」衡攬筆而作、文無加點、辭采甚麗。 (『後漢書』列伝第七十下、文苑列伝下、禰衡) へえ、後漢末の荊州でオウムを献上する者がいた、と。 つまり劉備や諸葛亮もオウムと出会っ…

思いつきをメモ

とりあえずは思いついただけだがここに書いておく。 曹丕のほとんどの言動は、「父曹操を憎んでいる」という一点から説明できるのではなかろうか。 コンプレックスの類とも言えるかもしれないが、ことあるごとに父曹操を否定し、卑下しようとしていたのだと…

皇后の人数

曹魏では実際に現役で皇后になった人物が8人いるのか(文帝1人、烈祖様2人、斉王3人、高貴郷公1人、陳留王1人)。 蜀漢では3人(呉氏と張氏2人)だから魏は多いな・・・と思ったが、呉も実は詳細不明なくらい多いんだった。 まあほぼすべて孫晧なん…

ひとこと

曹丕が甄氏から心が離れた理由、甄氏が何だか曹操・卞氏に取り入ってやけに気に入られるようになったから説。 本来は正妻候補が気に入られた方が自分の地位にとっても有益ではあるが、曹丕としてはプライド傷ついたんじゃねえかな、って・・・。

ひとこと

魏の烈祖様の郭皇后はその後ずっと皇太后として三少帝廃立に関わってきた重要人物だが、皇后になったのは烈祖様が危篤になってからなので、数日くらいしか皇后じゃなかったはずなんだよな・・・。 こういう人物が皇帝を新たに選びまくってるの、すごい皮肉な…

劉協の孫

太子早卒、孫(劉)康立五十一年、晉太康六年薨。 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀) 適孫桂氏郷侯(劉)康、嗣立為山陽公。 (『三国志』巻三、明帝紀、青龍二年、注引『献帝伝』) 献帝こと山陽公劉協が死ぬと孫の劉康が山陽公を継いでいるが、劉康はその時…

左将軍仲間

袁術、劉備、司馬睿は「左将軍を経験して皇帝になった」仲間。 左将軍は皇帝へのステップ説。

シュレジンガーの劉協

章武二年、追諡皇思夫人、遷葬於蜀、未至而先主殂隕。丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。今皇思夫人宜有尊號、以慰寒泉之思、輒與恭等案諡法、宜曰昭烈皇后。詩曰『穀則異室、死則同穴。』故昭烈皇后宜與…

2人の列侯

劉備即位の時に名前が出てくる「陽泉侯劉豹」「青衣侯向挙」って、県侯ってことのようだから爵位だけならこの時点の張飛や馬超よりも高いんだよな・・・。 多分、当時劉備の元にいた者の中では劉備を除くとほぼ最上位の爵位なのだろう。 いったい何時から劉…

王の呼び名

魏郡に封建されたら「魏王」なんだから、東郡に封建されたら「東王」、南郡に封建されたら「南王」になるのではないか。 どうやらなぜかそれは良くないとされているらしく実際にはそういう王はいないのだが。面白い感覚。

開陽侯

文帝即王位、遷鎮東將軍、進爵武安郷侯、都督青州諸軍事。及踐阼、進封開陽侯、徙封良成侯。 (『三国志』巻十八、臧霸伝) 初、太后弟(卞)秉、以功封都郷侯、黄初七年進封開陽侯、邑千二百戸、為昭烈將軍。 (『三国志』巻五、后妃伝、武宣卞皇后) 臧覇…