官僚の子は官僚

除光祿大夫以下至郎中保父母同産之令。
【注】
應劭曰「舊時相保、一人有過、皆當坐之。」師古曰「特為郎中以上除此令者、所以優之也。同産、謂兄弟也。」
(『漢書』巻九、元帝紀、初元五年)


前漢元帝の時、郎中から光禄大夫までの官の父母兄弟の連帯責任制度を止めた、という。




逆に言うと、それまでは連帯責任があったという事だし、多分それ以外の官は継続していたのではなかろうか。




まあ、ここだけではどんな咎があっても連帯責任だったのかとかは分からないし、他の官が全て連帯責任だったのかは分からないが。





ただ、その一方で高級官僚は子弟を郎官に推挙する「任子」制度があったので、ただ責任だけ負わされていたとばかりも言えない面もある。



親が官僚なら子弟も官僚になる、ということを前提にしているからこその連帯責任だったのかもしれない。

五業従事

周易五卷。漢荊州劉表章句。梁有漢荊州五業從事宋忠注周易十卷、亡。
(『隋書』巻三十二、経籍志一、経、易)


ここに出てくる「荊州五業從事宋忠」というのは後漢末に劉表の元にいた南陽の宋忠の事だろうか?




だとすると「荊州五業従事」というのが宋忠の就いていた官名?


自分は初見だし、どういう官なんだか分からんが。

宋弘の妻その2

昨日の記事の主役、宋弘。




この人物は「糟糠の妻」の話で有名な人物でもある。





宋弘は主君である皇帝から、今の妻から皇帝の姉に乗り換えてはどうか、というMNPの誘いを「貧しい時を共にした妻を捨てるなんてとんでもない」と言って断った。





ところで、この宋弘は昨日の記事を見ると父は九卿に至り、自身も皇帝の側近や州牧、九卿といった要職に就いていた、いわば当時のエリート街道を驀進していた人物のように思われる。




こんな宋弘に「糟糠」を食べていたような貧乏な時代が一瞬たりとも存在したのだろうか・・・?






無論、王莽シンパとして殺されるかもしれないとビクビクしていた時代なども一緒だった妻なのだろうから、長らく苦楽を共にしたのは事実だろうし、「皇帝陛下のお姉さまと比べたら貧乏な私たち夫婦」みたいな謙遜の意味合いもあったのかもしれないが、宋弘に糟糠を食べるしかないような経済的に貧しい時代があったのかというと、少々怪しい、とは言えるのではなかろうか。

グッド・バイ

宋弘字仲子、京兆長安人也。父尚、成帝時至少府。哀帝立、以不附董賢、違忤抵罪。弘少而温順、哀平閒作侍中、王莽時為共工。赤眉入長安、遣使徴弘、逼迫不得已、行至渭橋、自投於水、家人救得出、因佯死獲免。
(『後漢書』列伝第十六、宋弘伝)

前漢末から後漢初の人宋弘(後漢初期の三公)は、赤眉が長安にやって来た時、赤眉に呼び出されると入水してグッド・バイを図り、そのまま死を装って逃げおおせた、という。



なぜ宋弘は赤眉をそこまで恐れたのか。



(息夫)躬・(孫)寵乃與中郎右師譚、共因中常侍宋弘上變事告焉。
(『漢書』巻四十五、息夫躬伝)

乃遣并州牧宋弘・游撃都尉任萌等將兵撃匈奴、至邊止屯。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中、天鳳三年五月)


どうやら、宋弘というのは哀帝の頃に侍中・中常侍(当時は宦官以外も就任していた)、その後は并州牧や九卿と、長く政権の中枢、要職にいた人物らしい。



しかも王莽政権の元での大臣である。




もしかすると、宋弘は王莽を打倒した赤眉によって「王莽の忠実な協力者」として政治責任を問われて殺される、といった恐れを抱いていたのでは・・・?




誇大広告

昨日の話の中で、前漢哀帝の正妻傅皇后親子は哀帝の治世の間廃位されずに済んだ、とされていた。これは確かに事実である。



(傅)晏封後月餘、傅妃立為皇后。傅氏既盛、晏最尊重。
哀帝崩、王莽白太皇太后詔曰「定陶共王太后與孔郷侯晏同心合謀、背恩忘本、專恣不軌、與至尊同稱號、終沒、至乃配食於左坐、誖逆無道。今令孝哀皇后退就桂宮。」後月餘、復與孝成趙皇后倶廢為庶人、就其園自殺。
(『漢書』巻九十七下、孝哀傅皇后伝)

(傅)喜在國三歳餘、哀帝崩、平帝即位、王莽用事、免傅氏官爵歸故郡、晏將妻子徙合浦。
莽白太后下詔曰「高武侯喜姿性端慤、論議忠直、雖與故定陶太后有屬、終不順指從邪、介然守節、以故斥逐就國。傳不云乎?『歳寒然後知松柏之後凋也。』其還喜長安、以故高安侯莫府賜喜、位特進、奉朝請。」喜雖外見襃賞、孤立憂懼、後復遣就國、以壽終。莽賜諡曰貞侯。
(『漢書』巻八十二、傅喜伝)


しかし、哀帝が死んで平帝が即位してあの王莽が政権を握ると、傅皇后は廃されて自殺、傅皇后の父である傅晏ははるか遠く合浦へ配流され、一族傅喜*1も配流こそ免れたが政治の場からは遠ざけられた。




つまり、傅氏は「哀帝の時代は廃されずに済んだが、哀帝の時代が終わった途端にひどい目にあった」という事である。




昨日の記事に出てきた桓譚の話は少々誇大広告気味である。

*1:なお、昨日の記事に「后弟侍中(傅)喜」すなわち皇后の弟傅喜という者が出てきたが、今日の記事に出てくる傅喜は傅晏の従兄弟である。別の侍中傅喜がいたのだろうか。

哀帝の皇后傅氏一族

哀平閒、位不過郎。傅皇后父孔郷侯晏深善於(桓)譚。
是時高安侯董賢寵幸、女弟為昭儀、皇后日已疏、晏嘿嘿不得意。譚進説曰「昔武帝欲立衛子夫、陰求陳皇后之過、而陳后終廢、子夫竟立。今董賢至愛而女弟尤幸、殆將有子夫之變、可不憂哉!」晏驚動曰「然、為之奈何?」譚曰「刑罰不能加無罪、邪枉不能勝正人。夫士以才智要君、女以媚道求主。皇后年少、希更艱難、或驅使醫巫、外求方技、此不可不備。又君侯以后父尊重而多通賓客、必借以重埶、貽致譏議。不如謝遣門徒、務執謙慤、此脩己正家避禍之道也。」晏曰「善」。遂罷遣常客、入白皇后,如譚所戒。
後賢果風太醫令真欽、使求傅氏罪過、遂逮后弟侍中喜、詔獄無所得、乃解、故傅氏終全於哀帝之時。
及董賢為大司馬、聞譚名、欲與之交。譚先奏書於賢、説以輔國保身之術、賢不能用、遂不與通。
(『後漢書』列伝第十八上、桓譚伝)

前漢末、桓譚は哀帝外戚(皇后傅氏の父傅晏)に「皇帝は寵愛する董賢の妹を皇后にしようと思っていて、今の皇后傅氏の罪過を暴いて廃位して皇后を替えるかもしれませんよ」と進言した。



それによると、皇后傅氏は「或驅使醫巫、外求方技」と言った事をしているという。これはもしかして後継ぎを欲するため、あるいは寵愛を取り戻すために医術や呪術を頼っている、という事か。



この手の「男子を得るための努力」は報われないどころか、愛妾を呪殺しようとした、などと言われて命とりになる事がありがちである。




傅晏は自分自身の身を正すとともに、娘である皇后にも桓譚の戒めを伝えた。最終的にはそのおかげで董賢の仕掛けた罠にかからずに身を全うできたのだ、ということである。





董賢は皇后傅氏一族を消そうとし、傅氏は傅氏で怪しげな手段に頼ろうとしていた、という前漢末の後宮の暗部であった。