昨日の続き

昨日(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/05/11/000100)の続き的な。




蒯越は「樊亭侯」になった。




同じ「亭侯」の例として、曹操およびその祖父曹騰の「費亭侯」というのがある。


【注】
左傳昭四年、呉伐楚入棘、杜預曰縣東北有棘亭。襄元年鄭侵宋、取犬丘、杜預曰縣東北有犬丘城。帝王世記曰「曹騰封費亭侯、縣有費亭是也。」
(『続漢書』志第二十、郡国志二、予州、沛国)

この「費亭」は曹氏の故地である沛国にある。


また例えば後漢の霍諝も自分の出身県である魏郡鄴県の都亭侯になっている。



こういうのは出身地と同じ郡を選んでやる傾向があるのかもしれない。



もちろん一、二例だけでは何とも言えないところもあるが。




まあ、これと同様だとすれば、蒯越の「樊亭」も蒯越の出身である南郡近辺にあるのかもしれず、南郡で有名な「樊」といえばあの「樊城」である。




そして「樊城」とよく言われるが、南郡に「樊」という県は無いようである。それでいて「城」ではあるから、何らかの要塞はあったのだろう。これは行政区分上は「亭」だったのではないか。



つまり、蒯越の領地とされた「樊亭」と、後漢末以降しばしば戦場になった「樊城」は同一の存在なのではないか、ということだ。




まあ、推測に推測を重ねた、もはや単なる妄想であるが。

職場放棄疑惑

傅子曰、(蒯)越、蒯通之後也、深中足智、魁傑有雄姿。大將軍何進聞其名、辟為東曹掾。越勸進誅諸閹官、進猶豫不決。越知進必敗、求出為汝陽令、佐劉表平定境内、表得以彊大。
(『三国志』巻六、劉表伝注引『傅子』)

初平元年、長沙太守孫堅荊州刺史王叡、詔書以(劉)表為荊州刺史。時江南宗賊大盛、又袁術阻兵屯魯陽、表不能得至、乃單馬入宜城、請南郡人蒯越・襄陽人蔡瑁與共謀畫。
(『後漢書』列伝第六十四下、劉表伝)

南郡の人蒯越は当初大将軍何進の東曹掾だったが、自ら予州汝陽県令になって都を出たという(その後何進は宦官に殺され、都も大変な事になる)。



しかし彼は荊州刺史劉表に当初より協力していたという。



汝陽県は予州の筈なのだが、なぜ蒯越は荊州で働いているのだろうか?




実際には汝陽県に着任せず、職場放棄して郷里のある荊州へ戻っていたのだろうか?*1

*1:ちなみに実際に職場放棄して郷里に戻ったと記録されているのが荀彧である。蒯越も荀彧と同じような事をしたのかもしれない。

青州・徐州の軍

江表傳曰、(劉)備從魯肅計、進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣呉未還、備聞曹公軍下、恐懼、日遣邏吏於水次候望(孫)權軍。吏望見(周)瑜船、馳往白備。備曰「何以知非青・徐軍邪?」吏對曰「以船知之。」備遣人慰勞之。
(『三国志』巻三十二、先主伝注引『江表伝』)

劉備が長坂の戦いの後で江夏郡に入っていた時。



諸葛亮孫権の元へ行って孫権曹操との対決を勧めていた。劉備曹操の軍が来ることを恐れ、孫権の軍が来ることを待ち望み、毎日警邏の者を派遣していた。



警邏の者が「呉の船が来ました」と報告したところ、劉備は「どうして青州・徐州の軍ではないと分かった?」と訊き、警邏の者は「船を見てわかりました」と答えた。




おそらく、東方を警邏した者の報告だったので、「呉の船か、それとも曹操の側の青州・徐州から来た船か」を確認したのだろう*1





という事は、当時の曹操の勢力圏の中で、青州や徐州からは船を出してやってくる可能性があった。言い換えれば、おそらく揚州経由で水軍を出す可能性があった、という事になるのではないか。


文王勅青・徐・兗・豫・荊・揚諸州、並使作船、又令唐咨作浮海大船、外為將伐呉者。
(『三国志』巻二十八、鍾会伝)


後の時代だが、司馬昭蜀漢攻めの際に陽動として青・徐・兗・予・荊・揚州に船を造らせて呉を攻めるように見せかけた。


青州や徐州の船は海沿いに呉を攻める目的なのではなかろうか。劉備が到来を危惧した「青・徐軍」というのも、そういうルートでやってきた船ではないだろうか。





だが、青州・徐州といえば曹操の勢力圏ではあっても、あまり十分に支配出来ていたとは思いにくい地方である。



曹操は呉への圧力や劉備の攻撃のために青州や徐州から水軍を動員する事が出来たのか、実際には怪しいところかもしれない。


青州・徐州から十分な水軍を出せるような体制が整っていたら、曹操は呉に対して攻めも守りももっとやりようがあったのかもしれない、などと言っては流石に言いすぎだろうか。

*1:なお、もし青州・徐州の水軍だったとしたら、呉が迎撃もせずスルーした、即ち孫権曹操に付いたという事なので、劉備は大ピンチである。

李さん一家の系図

昨日の続き。


李氏出自嬴姓。帝顓頊高陽氏生大業、大業生女華、女華生皋陶、字庭堅、為堯大理。生益、益生恩成、歴虞・夏・商、世為大理、以官命族為理氏。至紂之時、理徴字徳靈、為翼隸中呉伯、以直道不容於紂、得罪而死。其妻陳國契和氏與子利貞逃難於伊侯之墟、食木子得全、遂改理為李氏。
・・・(中略)・・・
五世孫乾、字元果、為周上御史大夫、娶益壽氏女嬰敷、生耳、字伯陽、一字聃、周平王時為太史
・・・(中略)・・・
生信、字有成、大將軍・隴西侯。生超、一名伉、字仁高、漢大將軍・漁陽太守。生二子、長曰元曠、侍中、次曰仲翔、河東太守・征西將軍、討叛羌于素昌、戰沒、贈太尉、葬隴西狄道東川、因家焉。生伯考、隴西・河東二郡太守。生尚、成紀令、因居成紀。弟向、范陽房始祖也。尚生廣、前將軍
(『新唐書』巻七十上、宗室世系表上)

かの唐王朝の皇帝の家である李氏は、あの李耳すなわち老子を輩出し、その更なる子孫に秦の李信、漢の将軍李広がいる、とされている。



だが『史記』や『漢書』の李広の列伝には、李広の先祖が老子であるという言及は特に無いようである。

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