拷問酒造

書奏、(孫)晧深恨之。(賀)邵奉公貞正、親近所憚。乃共譖邵與樓玄謗毀國事、倶被詰責、玄見送南州、邵原復職。
後邵中惡風、口不能言、去職數月、晧疑其託疾、收付酒藏、掠考千所、邵卒無一語、竟見殺害、家屬徙臨海。并下詔誅玄子孫。是歲天冊元年也、邵年四十九。
(『三国志』巻六十五、賀邵伝)

呉末の賀邵は皇帝孫晧への諫言が憎まれ、病気で辞職したのを嘘だと思って酒蔵に叩き込んで拷問した。



・・・なんで捕まえるのはともかく酒蔵に叩き込んだんだろう・・・?




単なる皇帝の趣味なのか、それとも地下の冷暗所か何かだから人知れず拷問するのに適しているとか、そういった合理的な理由があったのだろうか?


あるいは、「酒蔵」は我々が今イメージするものとは違う何かなのか?