賀齊字公苗、會稽山陰人也。
・・・(中略)・・・
後四年卒、子達及弟景皆有令名、為佳將。
(『三国志』巻六十、賀斉伝)
賀邵字興伯、會稽山陰人也。孫休即位、從中郎為散騎中常侍、出為呉郡太守。孫晧時、入為左典軍、遷中書令、領太子太傅。
(『三国志』巻六十五、賀邵伝)
呉書曰、(賀)邵、賀齊之孫、景之子。
(『三国志』巻六十五、賀邵伝注引『呉書』)
呉末の賀邵は『呉書』によると賀斉の孫とされているのに、よく見ると『三国志』賀斉伝でも『三国志』賀邵伝でもそのことが言及されていない。
『呉書』は『三国志』の種本の一つみたいに言われている韋昭『呉書』の事のはずなので、陳寿が参照したであろう資料にだって載っている情報だったんじゃないかと思えてならない。
つまり、なんのためかは分からないが陳寿はこの血縁関係を「消した」んじゃないだろうか。