広川王の謎

夏四月、立代孝王玄孫之子如意為廣宗王、江都易王孫盱台侯宮為廣川王、廣川惠王曾孫倫為廣徳王。
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始二年)


前漢平帝の時(王莽の時)、「広宗王」「広川王」「広徳王」が新たに建てられたのだという。


廣世
元始二年四月丁酉、王宮以易王庶孫盱眙侯子紹封、五年、王莽篡位、貶為公、明年廢。
(『漢書』巻十四、諸侯王表)

だが『漢書』諸侯王表ではこの時に新たに生まれたのは「広世王」だとされている。




「世」は「丗」「卅」(三十)と同じらしいので、「川」と混同する可能性は十分ある。しかも「広徳王」が「広川王」から変わっているから、なおさら混同されそうである。




「広宗」「広徳」というネーミングとの統一性を考えると、単なる一地名に見える「広川」よりも「広世(広卅)」の方がいかにも王莽のネーミングらしい、とも思う。





昔も同じような話をどこかで書いたかもしれないが。