「周王の子孫」をめぐる争い

其封嘉為周子南君、以奉周祀。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元康元年三月丙戌、君延年以當弟紹封、初元五年正月癸巳、更封為周承休侯、位次諸侯王、二十九年薨、諡曰考。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯、周子南君姫嘉)


前漢の時、周王の子孫とされ、周の祭祀を継ぐ者として爵位と領土を貰っていた周子南君は「周承休侯」に格上げされた。


永始二年、侯當嗣、七年、綏和元年、進爵為公、地滿百里。元始四年、為鄭公、王莽篡位、為章牟公。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯、周子南君姫嘉)


その後、平帝の時になって「鄭公」、更に王莽が皇帝になってから「章牟公」と改封された。



以周公世魯頃公玄孫之玄孫奉周祀侯、二千戸。
(元始元年)六月丙午封、薨。
十一月、侯相如嗣、更姓公孫氏、後更為姫氏。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯、襃魯節侯公子寛)


平帝の時、春秋時代の魯公の子孫の公子寛が「襃魯侯」に封じられた。
「周の祭祀を奉じた」という。


その後、この襃魯侯は「公孫氏」、次いで「姫氏」と改姓したという。



あれ・・・?

周承休侯(鄭公)と襃魯侯が両方とも「周の祭祀を奉じる」者として両立していたのか?


しかも、その後は襃魯侯の方は「姫氏」すなわち周王の姓に改姓した一方、周承休侯の子孫は王莽時代には「章牟公」などという周との関係がはっきりしない名前*1に変わってしまった。



もしかして、王莽時代には襃魯侯の方が「正統なる周王の子孫」扱いされて周承休侯の子孫の方が傍流扱いになっていたのだろうか。

「周王の子孫」もずっと安泰というわけではなかったということか。

*1:「章牟」は高密を王莽が改称した地名らしい。