その33(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/11/03/000100)の続き。
五年春正月、虜帥樹機能攻陷涼州。
乙丑、使討虜護軍武威太守馬隆撃之。
二月甲午、白麟見于平原。
三月、匈奴都督拔弈虚帥部落歸化。
乙亥、以百姓饑饉、減御膳之半。
有星孛于柳。
夏四月、又孛于女御。大赦、降除部曲督以下質任。
丁亥、郡國八雨雹、傷秋稼、壞百姓廬舍。
(『晋書』巻三、武帝紀)
咸寧5年前半。
涼州刺史楊欣失羌戎之和、(馬)隆陳其必敗。俄而欣為虜所沒、河西斷絶。
帝毎有西顧之憂、臨朝而歎曰「誰能為我討此虜通涼州者乎?」朝臣莫對。隆進曰「陛下若能任臣、臣能平之。」帝曰「必能滅賊、何為不任、顧卿方略何如耳。」隆曰「陛下若能任臣、當聽臣自任。」帝曰「云何?」隆曰「臣請募勇士三千人、無問所從來、率之鼓行而西、稟陛下威徳、醜虜何足滅哉!」帝許之、乃以隆為武威太守。公卿僉曰「六軍既衆、州郡兵多、但當用之、不宜横設賞募以亂常典。隆小將妄説、不可從也。」帝弗納。
隆募限腰引弩三十六鈞、弓四鈞、立標簡試。自旦至中、得三千五百人、隆曰「足矣。」因請自至武庫選杖。武庫令與隆忿爭、御史中丞奏劾隆、隆曰「臣當亡命戰場、以報所受、武庫令乃以魏時朽杖見給、不可復用、非陛下使臣滅賊意也。」帝從之、又給其三年軍資。
隆於是西渡温水。虜樹機能等以衆萬計、或乗險以遏隆前、或設伏以截隆後。隆依八陣圖作偏箱車、地廣則鹿角車營、路狹則為木屋施於車上、且戰且前、弓矢所及、應弦而倒。奇謀間發、出敵不意。或夾道累磁石、賊負鐵鎧、行不得前、隆卒悉被犀甲、無所留礙、賊咸以為神。轉戰千里、殺傷以千數。
自隆之西、音問斷絶、朝廷憂之、或謂已沒。後隆使夜到、帝撫掌歡笑。
詰朝、召羣臣謂曰「若從諸卿言、是無秦涼也。」乃詔曰「隆以偏師寡衆、奮不顧難、冒險能濟、其假節・宣威將軍、加赤幢・曲蓋・鼓吹。」
隆到武威、虜大人猝跋韓・且萬能等率萬餘落歸降、前後誅殺及降附者以萬計。
又率善戎沒骨能等與樹機能大戰、斬之、涼州遂平。
(『晋書』巻五十七、馬隆伝)
馬隆は自ら涼州行きに立候補し、少数精鋭で戦場に向かった。「魏の時の質が悪い武器を支給するとか、命令した陛下を舐めてるの?」などとサラッと魏をディスったり*1、磁石で金属鎧を妨害したりといったエピソードを挟みつつ、馬隆は樹機能を討ち果たしたのだった。
*1:もっとも、魏の武器の品質が劣悪だったというよりは、経年劣化が激しいという事を言いたいだけかもしれないが。