『晋書』武帝紀を読んでみよう:その33

その32(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/11/02/000100)の続き。





秋七月己丑、祔葬景獻皇后羊氏于峻平陵。
庚寅、高陽王緝薨。
癸巳、范陽王綏薨。
荊・揚郡國二十皆大水。
九月、以太傅何曾為太宰。
辛巳、以尚書令李胤為司徒。
冬十月、以征北大將軍衛瓘為尚書令。
揚州刺史應綽伐呉皖城、斬首五千級、焚穀米百八十萬斛。
十一月辛巳、太醫司馬程據獻雉頭裘、帝以奇技異服典禮所禁、焚之於殿前。甲申、敕内外敢有犯者罪之。
呉昭武將軍劉翻・厲武將軍祖始來降。
辛卯、以尚書杜預都督荊州諸軍事。征南大將軍羊祜卒。
十二月乙未、西河王斌薨。
丁未、太宰朗陵公何曾薨。
是歳、東夷九國内附。
(『晋書』巻三、武帝紀)

高陽王緝は義陽王司馬望の弟の太原王司馬輔の子だそうだ。つまり祖父は安平王司馬孚。



范陽王綏は司馬懿の弟司馬馗の子との事。


西河王斌は司馬懿の弟司馬通の子との事。





羊祜が死に、杜預が都督荊州諸軍事になる。




今は咸寧4年。西暦では278年である。そう、もうすぐである。


呉人大佃皖城、圖為邊害。(王)渾遣揚州刺史應綽督淮南諸軍攻破之、并破諸別屯、焚其積穀百八十餘萬斛・稻苗四千餘頃・船六百餘艘。渾遂陳兵東疆、視其地形險易、歴觀敵城、察攻取之勢。
(『晋書』巻四十二、王渾伝)

揚州刺史応綽による皖城攻撃は、その来るべき時の前哨戦のようなものだったようだ。