『晋書』武帝紀を読んでみよう:その30

その29(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/29/000100)の続き。





三年春正月丙子朔、日有蝕之。
立皇子裕為始平王、安平穆王隆弟敦為安平王。詔曰「宗室戚屬、國之枝葉、欲令奉率徳義、為天下式。然處富貴而能慎行者寡、召穆公糾合兄弟而賦唐棣之詩、此姫氏所以本枝百世也。今以衛將軍・扶風王亮為宗師、所當施行、皆諮之於宗師也。」
庚寅、始平王裕薨。
有星孛於西方。
使征北大將軍衛瓘討鮮卑力微。
三月、平虜護軍文淑討叛虜樹機能等、並破之。
有星孛于胃。
乙未、帝將射雉、慮損麥苗而止。
夏五月戊子、呉將邵凱・夏祥帥衆七千餘人來降。
六月、益・梁八郡水、殺三百餘人、沒邸閣別倉。
(『晋書』巻三、武帝紀)

咸寧3年前半。



文淑というのはあの文鴦の事。



人有略呉二兒為俘者、(羊)祜遣送還其家。後呉將夏詳・邵顗等來降、二兒之父亦率其屬與倶。
(『晋書』巻三十四、羊祜伝)

呉からの降伏者は邵顗・夏詳とも書かれる。


この降将にまつわる話(部下が呉人の子を捕虜にしたが家に帰してやったら、その後降伏者の中にその一家も含まれていた)からも分かるように、この時期の都督荊州諸軍事羊祜は呉に対して徹底的に恩徳を示す方針を貫いていたらしく、皇帝に恐れをなして晋へ逃亡する者がしばしば出てきていた呉と綺麗な対比になっている。




司馬炎は雉狩りをしようとしたが、農作物を荒らすのを嫌って取りやめた、という。



魏の初代皇帝にも狩猟にまつわるエピソードがあったのを思い出す。