『晋書』文帝紀を読んでみよう:その20

その19(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/04/000100)の続き。





咸熙元年春正月、檻車徴(鄧)艾。乙丑、帝奉天子西征、次于長安
是時魏諸王侯悉在鄴城、命從事中郎山濤行軍司事、鎮於鄴、遣護軍賈充持節、督諸軍、據漢中。
鍾會遂反於蜀、監軍衞瓘・右將軍胡烈攻會、斬之。
初、會之伐蜀也、西曹屬邵悌言於帝曰「鍾會難信、不可令行。」帝笑曰「取蜀如指掌、而衆人皆言不可、唯會與吾意同。滅蜀之後、中國將士、人自思歸、蜀之遺黎、猶懷震恐、縱有異志、無能為也。」卒如所量。
丙辰、帝至自長安
(『晋書』巻二、文帝紀


鍾会、反乱。そして滅ぶ。


(鄧)艾父子既囚、鍾會至成都、先送艾、然後作亂。會已死、艾本營將士追出艾檻車、迎還。(衛)瓘遣田續等討艾、遇於緜竹西、斬之。子忠與艾倶死、餘子在洛陽者悉誅、徙艾妻子及孫於西域。
(『三国志』巻二十八、鄧艾伝)

鄧艾本營將士復追破檻車出艾、還向成都。(衛)瓘自以與會共陷艾、懼為變、又欲專誅會之功、乃遣護軍田續至緜竹、夜襲艾於三造亭、斬艾及其子忠。初、艾之入江由也、以續不進、將斬之、既而赦焉。及瓘遣續、謂之曰「可以報江由之辱矣。」
(『晋書』巻三十六、衛瓘伝)

鍾会らに弾劾されて囚われた鄧艾は鍾会が滅ぶと部下によって救い出された。だが、監軍衛瓘が鄧艾を殺す。


鍾会を滅ぼした衛瓘や胡烈も鄧艾弾劾に加わっていたので、鄧艾に罪無し、釈放などというのは他の征蜀軍にとっては都合が悪いのだ。



醜い権力争いと言えようが、前回の言動を見ると、鄧艾もここで死ななければ更に酷い死にざまを見せてしまいそうな感じがある。


家族眷属も連座しているので、当時の公式では鄧艾は謀反人のままなのである。




司馬昭鍾会の拡大や飛び火を恐れたのか、漢中と鄴を腹心に抑えさせ、自らも長安まで出向いた。



最悪の事態は避けられていたが、万全の体制は整っていたのかもしれない。