『三国志』武帝紀を読んでみよう:その12

その11(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/13/000100)の続き。





二年春、襲定陶。濟陰太守呉資保南城、未拔。會呂布至、又撃破之。
夏、布將薛蘭・李封屯鉅野、太祖攻之、布救蘭、蘭敗、布走、遂斬蘭等。布復從東緡與陳宮將萬餘人來戰、時太祖兵少、設伏、縱奇兵撃、大破之。布夜走、太祖復攻、拔定陶、分兵平諸縣。
布東奔劉備、張邈從布、使其弟超將家屬保雍丘。
秋八月、圍雍丘。
冬十月、天子拝太祖兗州牧。
十二月、雍丘潰、超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救、為其衆所殺、兗州平、遂東略陳地。
是歳、長安亂、天子東遷、敗于曹陽、渡河幸安邑。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、呂布を制して兗州を制圧。張邈・張超を殺す。



「天子拝太祖兗州牧」というのは、おそらくこれまでの魏武は「本来の州牧がやられて不在だから臨時に代わってます」という状態で、ここで一応は皇帝にその州牧の引継ぎを正式に認められた、という事なのだろう。


これは、魏武が皇帝(献帝)に接近していた事を示しているとも言える。

太祖領兗州牧、始遣使上書。(李)傕・(郭)汜等以為「關東欲自立天子、今曹操雖有使命、非其至實」議留太祖使、拒絶其意。(鍾)繇說傕・汜等曰「方今英雄並起、各矯命專制、唯曹兗州乃心王室、而逆其忠款、非所以副將來之望也。」傕・汜等用繇言、厚加答報、由是太祖使命遂得通。
(『三国志』巻十三、鍾繇伝)


ハッキリ言って魏武は董卓董卓による献帝即位に異を唱える形で挙兵した一味で、劉虞を皇帝にしようとした袁紹と仲が良い(と少なくとも周りは見ていた)のであるから、この魏武の行動は反董卓サイドからのFAみたいなもの。当然献帝サイド(当時の事実上のキングメーカーである李傕・郭汜ら)に疑いの目で見られた。


だが、鍾繇こと畜生が「このFA選手を厚遇すれば他の選手もウチに来たがるだろう」みたいな理論を展開したため、魏武は献帝から正式任官を認められたという事らしい。




そしてよくよく見ると魏武は兗州を平定してすぐに予州陳国へ攻め入っている。


うーん、やはり青州黄巾は今も略奪出来る土地を求めているのでは・・・。




そして、献帝長安を脱出。河東郡経由で洛陽を目指すのであった。