『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その21

その20(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/24/000100)の続き。





三年夏四月、遣謁者裴茂率中郎將段煨討李傕、夷三族。
呂布叛。
冬十一月、盜殺大司馬張楊
十二月癸酉、曹操呂布於徐州、斬之。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

献帝に逃げられた李傕が討たれ、献帝を奪われた張楊も殺された。董卓を殺した呂布も死んだ。



これまで献帝の近くにいた者たちが次々と死んでいく。


(韓)暹矜功恣睢、干亂政事、董承患之、潛召兗州曹操。操乃詣闕貢獻、稟公卿以下、因奏韓暹・張楊之罪。暹懼誅、單騎奔楊奉。帝以暹・楊有翼車駕之功、詔一切勿問。於是封衛將軍董承・輔國將軍伏完等十餘人為列侯、贈沮儁為弘農太守。曹操以洛陽殘荒、遂移帝幸許。楊奉・韓暹欲要遮車駕、不及、曹操撃之、奉・暹奔袁術、遂縱暴揚・徐閒。明年、左將軍劉備誘奉斬之。暹懼、走還并州、道為人所殺。
胡才・李樂留河東、才為怨家所害、樂自病死。
張濟飢餓、出至南陽、攻穰、戰死。
郭汜為其將伍習所殺。
三年、使謁者僕射裴茂詔關中諸將段煨等討李傕、夷三族。以段煨為安南將軍、封閺郷侯。
四年、張楊為其將楊醜所殺。以董承為車騎將軍、開府。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

(張)楊以糧迎道路、遂至洛陽。謂諸將曰「天子當與天下共之、幸有公卿大臣、楊當捍外難、何事京都?」遂還野王。即拜為大司馬。
楊素與呂布善。太祖之圍布、楊欲救之、不能。乃出兵東市、遙為之勢。其將楊醜、殺楊以應太祖。楊將眭固殺醜、將其衆、欲北合袁紹。太祖遣史渙邀撃、破之於犬城、斬固、盡收其衆也。
(『三国志』巻八、張楊伝)

張楊呂布との連携を図ったようだが上手く行かず、部下に殺された。



李傕や郭汜が割とあっさりやられているのは、彼ら独自の兵力などはそこまで大きくなく、献帝を失って求心力を無くすと脆かった、という事だろうか。