『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その16

その15(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/19/000100)の続き。





二年春正月癸丑、大赦天下。
二月乙亥、李傕殺樊稠、而與郭汜相攻。
三月丙寅、李傕脅帝幸其營、焚宮室。
夏四月甲午、立貴人伏氏為皇后。
丁酉、郭汜攻李傕、矢及御前。
是日、李傕移帝幸北塢。
大旱。
五月壬午、李傕自為大司馬。
六月庚午、張濟自陝來和傕・汜。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

興平2年(6月まで)。


獻帝伏皇后諱壽、琅邪東武人、大司徒湛之八世孫也。
父完、沈深有大度、襲爵不其侯、尚桓帝女陽安公主、為侍中。
初平元年、從大駕西遷長安、后時入掖庭為貴人。
興平二年、立為皇后、完遷執金吾。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后)


伏氏を皇后に立てる。伏氏は後漢初期の功臣の子孫である。



明年春、(李)傕因會刺殺樊稠於坐、由是諸將各相疑異、傕・汜遂復理兵相攻。
安西將軍楊定者、故卓部曲將也、懼傕忍害、乃與汜合謀迎天子幸其營。傕知其計、即使兄子暹將數千人圍宮。以車三乗迎天子・皇后。太尉楊彪謂暹曰「古今帝王、無在人臣家者。諸君舉事、當上順天心、奈何如是!」暹曰「將軍計決矣。」帝於是遂幸傕營、彪等皆徒從。
亂兵入殿、掠宮人什物、傕又徙御府金帛乗輿器服、而放火燒宮殿官府居人悉盡。
帝使楊彪與司空張喜等十餘人和傕・汜、汜不從、遂質留公卿。彪謂汜曰「將軍達人閒事、奈何君臣分爭、一人劫天子、一人質公卿、此可行邪?」汜怒、欲手刃彪。彪曰「卿尚不奉國家、吾豈求生邪!」左右多諫、汜乃止。
遂引兵攻傕、矢及帝前、又貫傕耳。傕將楊奉本白波賊帥、乃將兵救傕、於是汜眾乃退。
是日、傕復移帝幸其北塢、唯皇后・宋貴人倶。傕使校尉監門、隔絶内外。尋復欲徙帝於池陽黄白城、君臣惶懼。司徒趙温深解譬之、乃止。詔遣謁者僕射皇甫酈和傕・汜。酈先譬汜、汜即從命。又詣傕、傕不聽。曰「郭多、盜馬虜耳、何敢欲與我同邪!必誅之。君觀我方略士衆、足辦郭多不?多又劫質公卿。所為如是、而君苟欲左右之邪!」汜一名多。酈曰「今汜質公卿、而將軍脅主、誰輕重乎?」傕怒、呵遣酈、因令虎賁王昌追殺之。昌偽不及、酈得以免。
傕乃自為大司馬。與郭汜相攻連月、死者以萬數。
張濟自陝來和解二人、仍欲遷帝權幸弘農。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

李傕らの間で権力闘争が激化。争いは皇帝の奪い合いという局面に入った。


何でも李傕は自分より人気があったという樊稠を暗殺し、それによって疑念が強まった郭汜らが皇帝の拉致を企み、李傕がそれを先に強行した、という流れであるらしい。



李傕は長安から引き離して池陽に遷そうとすらしたようだが、最終的には張済の仲介によって弘農へ遷そう、という事になったようだ。中間地点のような場所に置く事で李傕・郭汜らの間の均衡を保つ、というところだろうか?




なお池陽というのは李傕の列侯の封地であり、また、元々北地郡の人とされる李傕が移住させられてきた場所かもしれない。つまり、李傕は献帝を自分のホームグラウンドに遷そうとしていたのである。