『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/04/000100)の続き。





初平元年春正月、山東州郡起兵以討董卓
辛亥、大赦天下。
癸酉、董卓殺弘農王。
白波賊寇東郡。
二月乙亥、太尉黄琬・司徒楊彪免。
庚辰、董卓殺城門校尉伍瓊・督軍校尉周珌。
以光祿勳趙謙為太尉、太僕王允為司徒。
丁亥、遷都長安董卓驅徙京師百姓悉西入關、自留屯畢圭苑。
壬辰、白虹貫日。
三月乙巳、車駕入長安、幸未央宮。
己酉、董卓焚洛陽宮廟及人家。
戊午、董卓殺太傅袁隗・太僕袁基、夷其族。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

初平元年(3月まで)。



董卓、少帝劉弁を殺す。その一方で反董卓の挙兵が始まる。


なお、あの曹操は前年12月の段階で挙兵している。



三国志武帝紀・臧洪伝などでは少帝劉弁が殺されてから反董卓の挙兵が行われたかのように書かれているが、『後漢書孝献帝紀・董卓伝などを見ると、反董卓の挙兵があった事で劉弁を殺す事になったとしていて、はっきり矛盾している。


既に皇帝ではなかったとはいえ、自分たちの行動によって元皇帝劉弁が殺される事になったというのは、反董卓に参加した者たち(曹操袁紹やその関係者)としては、あまり明らかにされたくない事実だったのかもしれない。




そして董卓長安へ遷都。アンド墓荒らし。



高祖劉邦の時の話にあったように、長安の方が洛陽よりも守りが固い。


初、長安遭赤眉之亂、宮室營寺焚滅無餘。是時唯有高廟・京兆府舍、遂便時幸焉。後移未央宮。
於是盡徙洛陽人數百萬口於長安、歩騎驅蹙、更相蹈藉、飢餓寇掠、積尸盈路。卓自屯留畢圭苑中、悉燒宮廟官府居家、二百里内無復孑遺。又使呂布發諸帝陵、及公卿已下冢墓、收其珍寶。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

長安の宮殿は大半が失われていたという。京兆府すなわち京兆尹の役所は実際に使われていたから整備されていたのだろう。




袁氏、袁紹袁術のために全滅状態に。


袁氏ほどではなくとも、他の反董卓挙兵の中心人物たちの親族も似たような目に遭ったのではなかろうか。袁氏は人数が多く、地位も高かったから特筆されているのだろう。