『漢書』哀帝紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180426/1524668962)の続き。




六月、詔曰「鄭聲淫而亂樂、聖王所放。其罷樂府。」
曲陽侯(王)根前以大司馬建社稷策、益封二千戸。太僕安陽侯舜輔導有舊恩、益封五百戸。及丞相孔光・大司空氾郷侯何武益封各千戸。
詔曰「河間王良喪太后三年、為宗室儀表、益封萬戸。」
又曰「制節謹度以防奢淫、為政所先、百王不易之道也。諸侯王・列侯・公主・吏二千石及豪富民多畜奴婢、田宅亡限、與民爭利、百姓失職、重困不足。其議限列。」
有司條奏「諸王・列侯得名田國中、列侯在長安及公主名田縣道、關内侯・吏民名田、皆無得過三十頃。諸侯王奴婢二百人、列侯・公主百人、關内侯・吏民三十人。年六十以上、十歳以下、不在數中。賈人皆不得名田・為吏、犯者以律論。諸名田畜奴婢過品、皆沒入縣官。齊三服官・諸官織綺繡、難成、害女紅之物、皆止、無作輸。除任子令及誹謗詆欺法。掖庭宮人年三十以下、出嫁之。官奴婢五十以上、免為庶人。禁郡國無得獻名獸。益吏三百石以下奉。察吏殘賊酷虐者、以時退。有司無得舉赦前往事。博士弟子父母死、予寧三年。」
秋、曲陽侯王根・成都侯王況皆有罪。根就國、況免為庶人、歸故郡。
詔曰「朕承宗廟之重、戰戰兢兢、懼失天心。間者日月亡光、五星失行、郡國比比地動。乃者河南・穎川郡水出、流殺人民、壞敗廬舍。朕之不徳、民反蒙辜、朕甚懼焉。已遣光祿大夫循行舉籍、賜死者棺錢、人三千。其令水所傷縣邑及他郡國災害什四以上、民貲不滿十萬、皆無出今年租賦。」
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

綏和2年の後半。



哀帝、「限田」を施行。これは当時の左将軍師丹(儒者)の建策によるものだそうだ。



当時の貴人や豪族による兼併への対策を強く推し進めようというものだったのだろう。実際にはあまり効果が無かったというが。




哀帝はそのほかにも幾つか制度改革を行っている。


「任子令」廃止は小さいようで大きな変化である。「任子」とは高級官僚が自分の子弟を郎官に就任させる事が出来る制度である。コネ人事を公に認めていたのであるが、人格や能力によらないものであったことが問題視されたのだろう。




歳餘、成帝崩、哀帝即位。
太后詔(王)莽就第、避帝外家。哀帝初優莽、不聽。莽上書固乞骸骨而退。
上乃下詔曰「曲陽侯根前在位、建社稷策。侍中太僕安陽侯舜往時護太子家、導朕、忠誠專壹、有舊恩。新都侯莽憂勞國家、執義堅固、庶幾與為治、太皇太后詔休就第、朕甚閔焉。其益封根二千戸、舜五百戸、莽三百五十戸。以莽為特進、朝朔望。」又還紅陽侯立京師。
哀帝少而聞知王氏驕盛、心不能善、以初立、故優之。
後月餘、司隸校尉解光奏、「曲陽侯根宗重身尊、三世據權、五將秉政、天下輻湊自效。根行貪邪、臧累鉅萬、縱膻恣意、大治室第、第中起土山、立両市、殿上赤墀、戸青瑣。遊觀射獵、使奴從者被甲持弓弩、陳為歩兵。止宿離宮、水衡共張、發民治道、百姓苦其役。内懷姦邪、欲筦朝政、推親近吏主簿張業以為尚書、蔽上壅下、内塞王路、外交藩臣、驕奢僭上、壞亂制度。案根骨肉至親、社稷大臣、先帝棄天下、根不悲哀思慕、山陵未成、公聘取故掖庭女樂五官殷嚴・王飛君等、置酒歌舞、捐忘先帝厚恩、背臣子義。及根兄子成都侯況幸得以外親繼父為列侯侍中、不思報厚恩、亦聘取故掖庭貴人以為妻、皆無人臣禮、大不敬不道。」於是天子曰「先帝遇根・況父子、至厚也、今乃背忘恩義!」以根嘗建社稷之策、遣就國。免況為庶人、歸故郡。根及況父商所薦舉為官者、皆罷。
(『漢書』巻九十八、元后伝)


王根は哀帝を皇太子に推した人物のひとりであり、哀帝は当初は王莽と共に厚遇した。



しかし王莽は傅氏と衝突して官を退き、王根は僭上や度を超えた贅沢を指弾されて失脚した。


「以根嘗建社稷之策、遣就國」というのは、王根は自分を皇太子に推した恩があるので、領国への送還で済ませてやる、という事である。そうでなかったらもっとヤバい事になる罪だぞ、という意味だ。



王氏「五侯」の最後の一人が放逐され、王氏期待の若手王莽も失脚した。



王氏は哀帝と血縁が無いため、どんどん朝廷から遠ざけられているのだ。