樂成
霍山。山者、大將軍光兄子也。光未死時上書曰「臣兄驃騎將軍去病從軍有功、病死、賜謚景桓侯、絶無後、臣光願以所封東武陽邑三千五百戸分與山。」天子許之、拝山為侯。後坐謀反、族滅、國除。
冠軍
霍雲。以大將軍兄驃騎將軍適孫為侯。地節三年、天子下詔書曰「驃騎將軍去病撃匈奴有功、封為冠軍侯。薨卒、子侯代立、病死無後。春秋之義、善善及子孫、其以邑三千戸封雲為冠軍侯。」後坐謀反、族滅、國除。
(『史記』巻二十、建元以来侯者年表)
樂平
侯(霍)山、地節二年四月癸巳以從祖祖父大將軍光功封、三千戸、四年、坐謀反、誅。
冠陽
侯雲、山弟、三年四月戊申以大將軍光功封、千八百戸、四年、坐謀反、誅。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表、冠軍景桓侯霍去病)
あの霍去病の子孫は霍去病の異母弟霍光一族が権力を握った時に列侯となった。
『史記』(褚先生が補ったとされる部分)では「霍光の兄(=霍去病)の子」霍山と「驃騎将軍(=霍去病)の孫」霍雲が侯となったとされ、『漢書』では「霍光が従祖父(=祖父は霍去病)」の霍山・霍雲「兄弟」が侯になったとされる。
つまり同じような列侯の記録でありながら、『史記』と『漢書』では霍山と霍雲の血縁関係が明らかに異なっている。
霍山は霍去病の子なのか孫なのか。
また侯としての封邑の名も違っている。『漢書』霍光伝では『漢書』外戚恩沢侯表と同じ封邑名である。
単純な記録の誤りかもしれないが、結構異同が多い。