『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180115/1515943145)の続き。




二年春正月、大將軍(霍)光・左將軍(上官)桀皆以前捕斬反虜重合侯馬通功封、光為博陸侯、桀為安陽侯。
以宗室毋在位者、舉茂才劉辟彊・劉長樂皆為光祿大夫、辟彊守長樂衞尉。
三月、遣使者振貸貧民毋種・食者。
秋八月、詔曰「往年災害多、今年蠶麥傷、所振貸種・食勿收責、毋令民出今年田租。」
冬、發習戰射士詣朔方、調故吏將屯田張掖郡。
三年春二月、有星孛于西北。
秋、募民徙雲陵、賜錢田宅。
冬十月、鳳皇集東海、遣使者祠其處。
十一月壬辰朔、日有蝕之。
(『漢書』巻七、昭帝紀

始元2年、3年。




この年は前後の年と比べると静かである。嵐の前の何とやらか。




霍光・上官桀が馬通を斬った功績で列侯となる。実際には急激に高い地位に上った後、理由を付けて爵位も同等に引き上げようとする措置だったようにも思えなくもない。


初、武帝遺詔以討莽何羅功封(金)日磾為秺侯、日磾以帝少不受封。輔政歳餘、病困、大將軍(霍)光白封日磾、臥授印綬。一日、薨、賜葬具冢地、送以輕車介士、軍陳至茂陵、諡曰敬侯。
(『漢書』巻六十八、金日磾伝)


なお、金日磾は死ぬ前日に病床で列侯の印綬を与えられたというから、霍光らの前年に列侯になっているようだ。



雲陵というのは昭帝の実母趙氏のための陵墓である。歴代皇帝陵に人を移住させて集落を形成させてたが、雲陵も同様にしたということだ。