『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180121/1516460971)の続き。




元鳳元年春、長公主共養勞苦、復以藍田益長公主湯沐邑。
泗水戴王前薨、以毋嗣、國除。後宮有遺腹子煖、相・内史不奏言。上聞而憐之、立煖為泗水王。相・内史皆下獄。
三月、賜郡國所選有行義者涿郡韓福等五人帛、人五十匹、遣歸。
詔曰「朕閔勞以官職之事、其務修孝弟以教郷里。令郡縣常以正月賜羊酒。有不幸者賜衣被一襲、祠以中牢。」
武都氐人反、遣執金吾馬適建・龍頟侯韓筯・大鴻臚廣明將三輔・太常徒、皆免刑撃之。
夏六月、赦天下。
秋七月乙亥晦、日有蝕之、既。
八月、改始元為元鳳。
九月、鄂邑長公主・燕王旦與左將軍上官桀・桀子票騎將軍安・御史大夫桑弘羊皆謀反、伏誅。
初、桀・安父子與大將軍光爭權、欲害之、詐使人為燕王旦上書言光罪。時上年十四、覺其詐。後有譖光者、上輒怒曰「大將軍國家忠臣、先帝所屬、敢有譖毀者、坐之。」光由是得盡忠。語在燕王・霍光傳。
冬十月、詔曰「左將軍安陽侯桀・票騎將軍桑樂侯安・御史大夫弘羊皆數以邪枉干輔政、大將軍不聽、而懷怨望、與燕王通謀、置驛往來相約結。燕王遣壽西長・孫縱之等賂遺長公主・丁外人・謁者杜延年・大將軍長史公孫遺等、交通私書、共謀令長公主置酒、伏兵殺大將軍光、徴立燕王為天子、大逆毋道。故稻田使者燕倉先發覺、以告大司農敞、敞告諫大夫延年、延年以聞。丞相徴事任宮手捕斬桀、丞相少史王壽誘將安入府門、皆已伏誅、吏民得以安。封延年・倉・宮・壽皆為列侯。」
又曰「燕王迷惑失道、前與齊王子劉澤等為逆、抑而不揚、望王反道自新、今乃與長公主及左將軍桀等謀危宗廟。王及公主皆自伏辜。其赦王太子建・公主子文信及宗室子與燕王・上官桀等謀反父母同産當坐者、皆免為庶人。其吏為桀等所詿誤、未發覺在吏者、除其罪。」
(『漢書』巻七、昭帝紀

元鳳元年。



燕王、長公主、桑弘羊、そして上官桀親子が反乱を理由に全員滅ぶ。



元々帝位を窺っていた燕王、霍光と対立していたという桑弘羊、そして霍光との関係が悪化していた上官桀らが共謀して霍光を殺し、燕王を皇帝に迎えようとしたのだ、とされている。


燕王旦自以昭帝兄、常懷怨望。及御史大夫桑弘羊建造酒榷鹽鐵、為國興利、伐其功、欲為子弟得官、亦怨恨光。
於是蓋主・上官桀・安及弘羊皆與燕王旦通謀、詐令人為燕王上書、言「光出都肄郎羽林、道上稱䟆、太官先置。又引蘇武前使匈奴、拘留二十年不降、還乃為典屬國、而大將軍長史敞亡功為搜粟都尉。又擅調益莫府校尉。光專權自恣、疑有非常。臣旦願歸符璽、入宿衛、察姦臣變。」候司光出沐日奏之。桀欲從中下其事、桑弘羊當與諸大臣共執退光。書奏、帝不肯下。
明旦、光聞之、止畫室中不入。上問「大將軍安在?」左將軍桀對曰「以燕王告其罪、故不敢入。」有詔召大將軍。光入、免冠頓首謝、上曰「將軍冠。朕知是書詐也、將軍亡罪。」光曰「陛下何以知之?」上曰「將軍之廣明、都郎屬耳。調校尉以來未能十日、燕王何以得知之?且將軍為非、不須校尉。」是時帝年十四、尚書左右皆驚、而上書者果亡、捕之甚急。桀等懼、白上小事不足遂、上不聽。
後桀黨與有譖光者、上輒怒曰「大將軍忠臣、先帝所屬以輔朕身、敢有毀者坐之。」自是桀等不敢復言、乃謀令長公主置酒請光、伏兵格殺之、因廢帝、迎立燕王為天子。事發覺、光盡誅桀・安・弘羊・外人宗族。燕王・蓋主皆自殺。
(『漢書』巻六十八、霍光伝)


この時、上官桀らは霍光の休日を狙って燕王の名のもと霍光弾劾を図ったが、昭帝が「遠くにいる燕王が最近の霍光の行動を知っているのはおかしいぞ」と言って裁可せず、霍光を信用した。


そこで上官桀らの企みが発覚したのだという。


燕王もまた発覚後に皇帝からの厳しい叱責の書が届くと印璽を帯びるための組紐で首をくくって自殺。



なお、昭帝の上官皇后は「謀反人」上官桀の孫、上官安の娘であるが、霍光にとっても孫であり、廃位や幽閉などの処置を取られなかった。