漢の漢たちを語る9「俺の祖母が14歳なわけがない」:上官皇后

前漢の皇后の中でも最も数奇で、そして寂しい運命をたどった女性。


それは、有名な呂后でも趙飛燕でも元后でもないと思う。


(始元)四年春三月甲寅、立皇后上官氏。
(『漢書』巻七、昭帝紀

月餘、遂立為皇后、年甫六歳。
(『漢書』巻九十七上、孝昭上官皇后伝)

武帝の死後に立てられた昭帝。

この皇帝は即位時点で八歳という幼帝であり、彼を大将軍の霍光、左将軍の上官桀らが輔政するという体制であった。



そして、昭帝は即位から五年目にして早くも皇后を立てることとなった。


それが上官氏である。
その名が示すように上官桀の孫娘であり、さらに霍光にとっても外孫であった。


これは上官桀らが体制固めのためにねじ込んだ縁組だとされている。



この時皇后はまだ六歳だったという。





だが、数年後に彼女は親族を失うこととなる。

(元鳳元年)九月、鄂邑長公主・燕王旦與左將軍上官桀・桀子票騎將軍安・御史大夫桑弘羊皆謀反、伏誅。
(『漢書』巻七、昭帝紀

(上官)桀・安宗族既滅、皇后以年少不與謀、亦(霍)光外孫、故得不廢。
(『漢書』巻九十七上、孝昭上官皇后伝)


上官桀らは霍光と敵対し、最終的には反乱者として始末されたのである。

上官桀の近親で生き残ったのはこの上官皇后だけだった。




その後、昭帝の皇后としての利用価値は霍光にとっても存在していたから、霍光はそれを最大限利用しようとした。

光欲皇后擅寵有子、帝時體不安、左右及醫皆阿意、言宜禁内、雖宮人使令皆為窮絝、多其帯、後宮莫有進者。
(『漢書』巻九十七上、孝昭上官皇后伝)


上官皇后が昭帝の男子を生めば、体調に不安のある昭帝が万一世を去っても霍光の血を引く子が帝位を継ぐことになる。
そこで霍光の意を受けた皇帝の近臣たちは上官皇后以外とのセクロス禁止という厳格な射精管理を行ったのである。


ただしこの頃の上官皇后は十代前半。しかも数え年の話なので、満年齢では十歳かそこらである。
昭帝(十代後半くらい)が重度のガチロリでない限り、夫婦どちらにとっても不幸な話だ。



そして更なる不幸が訪れる。

皇后立十歲而昭帝崩、后年十四五云。昌邑王賀徴即位、尊皇后為皇太后。光與太后共廢王賀、立孝宣帝。宣帝即位、為太皇太后
(『漢書』巻九十七上、孝昭上官皇后伝)


夫の昭帝が早死にしてしまったのだ。

なんと数え十四歳にして未亡人、皇太后である。



彼女は皇太后すなわち皇帝の母として昌邑王賀を皇帝に立てたが廃位することとなり、代わって宣帝を立てた。
宣帝にとって上官皇后は太皇太后ということになった。


宣帝より年下なのだが、「祖母」ということになってしまったのだ。




だが彼女の不幸はここで終わらない。

(地節四年)秋七月、大司馬霍禹謀反。
(『漢書』巻八、宣帝紀


霍光死後、子の霍禹が後を継いだが、彼とその一党は宣帝から次第に遠ざけられるようになり、最終的には反乱を企んだという罪で一族皆殺しとなったのである。


上官太皇太后は、父の一族ばかりか母の一族まで失ったのだ。
ついに彼女は夫もなく、子も生まれず、父とその一族も、母とその一族も、誰もいない天涯孤独な皇后になってしまった。



皇后母前死、葬茂陵郭東、追尊曰敬夫人、置園邑二百家、長丞奉守如法。皇后自使私奴婢守桀・安冢。
(『漢書』巻九十七上、孝昭上官皇后伝)


そんな彼女がしたことは数少ない。皇太后であるから命令を下す立場ではあったが、祖父霍光などに事実上指示されていたはずであり、本人は操り人形だったと思われるからだ。

だが、上記のように父上官安・祖父上官桀の葬られた地を守らせたのは、彼女が自分でしたことなのだろう。
最高権力者のはずの彼女が出来た事はこれだけだったと考えると、少し悲しい。



漢有右將軍安陽侯桀、生安、車騎將軍、桑樂侯、以反伏誅。遺腹子期、裔孫勝、蜀太尉。
(『新唐書』巻七十三下、宰相世系表三下、上官氏)


あと、こんな話も伝わっている。

上官安にはどうやら遺腹子がいたらしいのだ。
つまり誅殺された時にまだ生まれておらず、上官安が死んでから誕生したのである。

処刑の時には生まれていなかったから殺されずに済んだということだろう。


その子は上官皇后にとっては弟である。
その弟を保護したのは上官皇后だったのかもしれない。