『漢書』文帝紀を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171014/1507906943)の続き。




十三年春二月甲寅、詔曰「朕親率天下農耕以供粢盛、皇后親桑以奉祭服、其具禮儀。」
夏、除祕祝、語在郊祀志。
五月、除肉刑法、語在刑法志。
六月、詔曰「農、天下之本、務莫大焉。今廑身從事、而有租税之賦、是謂本末者無以異也、其於勸農之道未備。其除田之租税。賜天下孤寡布帛絮各有數。」
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝前13年。


文帝即位十三年、下詔曰「祕祝之官移過於下、朕甚弗取。其除之。」
(『漢書』巻二十五上、郊祀志上)


「祕祝」とは、どうやら君主などに降りかかるはずの災難を身代わりになって受ける役目の官のことらしい。文帝はそれを廃止したということである。





また文帝の業績として割と有名な「肉刑廃止」もこの年のことであった。


是後、外有輕刑之名、内實殺人。斬右止者又當死。斬左止者笞五百、當劓者笞三百、率多死。
(『漢書』巻二十三、刑法志)

実際には、それまでなら足や鼻を切られはしても命は取られなかった者が死刑になったり、ほぼ確実に死に至るようなムチ打ちを受けたりして、余計に刑罰による死者を増やしたとされるが、それでも大きな一歩には違いないだろう。





また、「其除田之租税」となんだかあっさり風味で書かれているが、これは「田租という税を廃止する」ということである。前にも減免措置があったが、今回は復活されるまで今後毎年田租は無いということなのだ。




おそらく他の租税などで賄える状態になったということなのだろうが、すこぶる気前のいいことである。




十三年夏、上曰「蓋聞天道禍自怨起而福繇徳興。百官之非、宜由朕躬。今祕祝之官移過于下、以彰吾之不徳、朕甚不取。其除之。」
五月、齊太倉令淳于公有罪當刑、詔獄逮徙繫長安。太倉公無男、有女五人。太倉公將行會逮、罵其女曰「生子不生男、有緩急非有益也!」其少女緹縈自傷泣、乃隨其父至長安、上書曰「妾父為吏、齊中皆稱其廉平、今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生、刑者不可復屬、雖復欲改過自新、其道無由也。妾願沒入為官婢、贖父刑罪、使得自新。」
書奏天子、天子憐悲其意、乃下詔曰「蓋聞有虞氏之時、畫衣冠異章服以為僇、而民不犯。何則?至治也。今法有肉刑三、而姦不止、其咎安在?非乃朕徳薄而教不明歟?吾甚自愧。故夫馴道不純而愚民陷焉。詩曰『緂悌君子、民之父母』。今人有過、教未施而刑加焉?或欲改行為善而道毋由也。朕甚憐之。夫刑至斷支體、刻肌膚、終身不息、何其楚痛而不徳也、豈稱為民父母之意哉!其除肉刑。」
上曰「農、天下之本、務莫大焉。今勤身從事而有租税之賦、是為本末者毋以異、其於勸農之道未備。其除田之租税。」
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』孝文本紀も『漢書』文帝紀とほぼ同じ内容が記される。ただこれらについてはどちらかというと『史記』の方が記事が詳しい。『漢書』は郊祀志や刑法志などに詳細を記す形式にしたからであろうが。




ちなみに肉刑廃止のきっかけとなった「太倉令淳于公」というのは当時の名医であった太倉公淳于意の事である。


治療をしてくれなかった家から恨まれたために告発される事態になったという風に『史記』扁鵲倉公列伝に記されている。