『漢書』成帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180331/1522422503)の続き。




河平元年春三月、詔曰「河決東郡、流漂二州、校尉王延世隄塞輒平、其改元為河平。賜天下吏民爵、各有差。」
夏四月己亥晦、日有蝕之、既。
詔曰「朕獲保宗廟、戰戰栗栗、未能奉稱。傳曰『男教不修、陽事不得、則日為之蝕。』天著厥異、辜在朕躬。公卿大夫其勉悉心、以輔不逮。百寮各修其職、惇任仁人、退遠殘賊。陳朕過失、無有所諱。」大赦天下。
六月、罷典屬國并大鴻臚。
秋九月、復太上皇寢廟園。
(『漢書』巻十、成帝紀

河平元年。


遣大司農非調調均錢穀河決所灌之郡、謁者二人發河南以東漕船五百㮴、徙民避水居丘陵、九萬七千餘口。
河隄使者王延世使塞、以竹落長四丈、大九圍、盛以小石、両船夾載而下之。三十六日、河隄成。上曰「東郡河決、流漂二州、校尉延世隄防三旬立塞。其以五年為河平元年。卒治河者為著外繇六月。惟延世長於計策、功費約省、用力日寡、朕甚嘉之。其以延世為光祿大夫、秩中二千石、賜爵關内侯、黄金百斤。」
(『漢書』巻二十九、溝洫志)

前年の黄河の氾濫が抑えらたという事で「河平」と改元



成帝時以無繼嗣、河平元年復復太上皇寢廟園、世世奉祠。
(『漢書』巻七十三、韋玄成伝)


太上皇の祭祀を復活させたのは、成帝に後継ぎがいないから、という事だそうだ。



成帝はまだ20代前半なので、後継ぎがいない*1事を焦る時期でも無いかもしれないが、これまで歴代皇帝はこの頃には後継ぎになる男子が生まれていた(例外もいるが)からだろうか。

*1:許皇后との間に男子が生まれていたという記録はあるので、早死にしただけで生まれていなかったわけではない。