『漢書』元帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180312/1520780558)の続き。




二年春二月、詔曰「蓋聞唐虞象刑而民不犯、殷周法行而姦軌服。今朕獲承高祖之洪業、託位公侯之上、夙夜戰栗、永惟百姓之急、未嘗有忘焉。然而陰陽未調、三光晻昧。元元大困、流散道路、盜賊並興。有司又長殘賊、失牧民之術。是皆朕之不明、政有所虧。咎至於此、朕甚自恥。為民父母、若是之薄、謂百姓何!其大赦天下、賜民爵一級、女子百戸牛酒、鰥寡孤獨高年・三老・孝弟・力田帛。」又賜諸侯王・公主・列侯黄金、中二千石以下至中都官長吏各有差、吏六百石以上爵五大夫、勤事吏各二級。
三月壬戌朔、日有蝕之。詔曰「朕戰戰栗栗、夙夜思過失、不敢荒寧。惟陰陽不調、未燭其咎。婁敕公卿、日望有效。至今有司執政、未得其中、施與禁切、未合民心。暴猛之俗彌長、和睦之道日衰、百姓愁苦、靡所錯躬。是以氛邪歳筯、侵犯太陽、正氣湛掩、日久奪光。乃壬戌、日有蝕之。天見大異、以戒朕躬、朕甚悼焉。其令内郡國舉茂材異等賢良直言之士各一人。」
夏六月、詔曰「間者連年不收、四方咸困。元元之民、勞於耕耘、又亡成功、困於饑饉、亡以相救。朕為民父母、徳不能覆、而有其刑、甚自傷焉。其赦天下。」
秋七月、西羌反、遣右將軍馮奉世撃之。
八月、以太常任千秋為奮威將軍、別將五校並進。
(『漢書』巻九、元帝紀)

永光2年。




自らの不明を恥じる詔を出して大赦を行ったのにも関わらず、翌月に日食。


皇帝や大臣たちは相当焦ったのではないだろうか。




そして、隴西の羌が反乱。



派遣された馮奉世は、かつて漢に反抗した西域の莎車国を独断で討ったという人物で、当時としては経験豊富で有能な将軍であったのだろう。


於是遣(馮)奉世將萬二千人騎、以將屯為名。典屬國任立・護軍都尉韓昌為偏裨、到隴西、分屯三處。典屬國為右軍、屯白石。護軍都尉為前軍、屯臨洮。奉世為中軍、屯首陽西極上。前軍到降同阪、先遣校尉在前與羌爭地利、又別遣校尉救民於廣陽谷。羌虜盛多、皆為所破、殺両校尉。奉世具上地形部衆多少之計、願益三萬六千人乃足以決事。
書奏、天子大為發兵六萬餘人、拜太常弋陽侯任千秋為奮武將軍以助焉。
(『漢書』巻七十九、馮奉世伝)


1万2千騎で戦地に赴いた馮奉世だが、羌はなかなか強勢であり、3万6千人の増員を願い出た。それに対し、元帝は6万人もの増員を決定し、九卿の任千秋を奮武将軍に任命して援軍を率いさせた。


「五校」という事は、この援軍は皇帝直属の兵から出ていたのかもしれない。



なお、本紀ではその援軍の将は「奮威将軍」だが、馮奉世伝では「奮武将軍」となっている。どちらが正しいのか、あるいはその違いに何か理由があるのか、ちょっとわからない。