人質

孫盛曰、案光武紀、建武九年、盜劫陰貴人母弟。吏以不得拘質迫盜、盜遂殺之也。然則合撃者、乃古制也。自安・順已降、政教陵遲、勢質不避王公、而有司莫能遵奉國憲者、(韓)浩始復斬之、故魏武嘉焉。
(『三国志』巻九、夏侯惇伝注)


三国志』の注釈(夏侯惇が人質になったところ)において孫盛は「『光武帝紀』では「建武九年に犯罪者集団が陰貴人(後の皇后)の母と弟を人質に取ったが、役人は人質の安全を確保することができずに誘拐犯を攻撃したため、誘拐犯は人質を殺したのだ」と言っている。ということは人質を盾にした交渉に乗らずに犯罪者を攻めるのは昔からある制度なのだ」と言っている。




建武)九年、有盜劫殺后母訒氏及弟訢、帝甚傷之。
(『後漢書』本紀第十上、皇后紀上、光烈陰皇后)

だが、今の『後漢書』の光武帝紀にはそれらしき記事は無く、あるのは皇后紀の方だった。

しかも詳しいことが書いていない。




これは孫盛が間違えているのではなく、孫盛が見た『光武帝紀』は『後漢書』以前の史料であるから(『東観漢記』か)、そこには陰貴人の母や弟を役人が見殺しにしたという経緯も書いていたということなのだろう。





単なる省略か意図的なものか知らないが、『後漢書』では抜け落ちた事実がここには残っていたということになる。