梁氏なのか薄氏なのか訒氏なのか

延熹四年正月辛酉、南宮嘉紱殿火。戊子、丙署火。二月壬辰、武庫火。五月丁卯、原陵長壽門火。
先是亳后因賤人得幸、號貴人、為后。上以后母宣為長安君、封其兄弟、愛寵隆崇、又多封無功者。去年春、白馬令李雲坐直諫死。至此彗除心・尾、火連作。
(『続漢書』志第十四、五行志二)

桓帝訒皇后諱猛女、和熹皇后從兄子訒香之女也。母宣、初適香、生后。改嫁梁紀、紀者、大將軍梁冀妻孫壽之舅也。后少孤、隨母為居、因冒姓梁氏。
冀妻見后貌美、永興中進入掖庭、為采女、絶幸。明年、封兄訒演為南頓侯、位特進。演卒、子康嗣。
及懿獻后崩、梁冀誅、立后為皇后。帝惡梁氏、改姓為薄、封后母宣為長安君。
四年、有司奏后本郎中訒香之女、不宜改易它姓、於是復為訒氏。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下)

桓帝延熹二年、誅大將軍梁冀、而中常侍單超等五人皆以誅冀功並封列侯、專權選舉。
又立掖庭民女亳氏為皇后、數月輭、后家封者四人、賞賜巨萬。
(『後漢書』列伝第四十七、李雲伝)


後漢桓帝は有名な跋扈将軍梁冀打倒後に「亳氏」という女性を皇后に立てた、という。



「亳」は「薄」と通じる字である。つまり、「薄氏」と書く場合がある、ということだ。



そして、『後漢書』皇后紀によるとこの皇后は「元は梁冀の縁者で梁氏を名乗っていたが梁冀死後に薄氏に改姓、その後更に訒氏に改姓した。もともとは和帝の皇后訒氏の血縁である」とされている。




だが、『後漢書』李雲伝や『続漢書』五行志ではこの皇后は「賤人」「民女」と、やんごとない身分のの出ではないと明記されている。






これは流石に何らかの矛盾があると考えざるを得ない。




そういう目で見ると、皇后紀の訒氏へ改姓するくだりは「これからは訒氏!かつての訒太后の血縁者!そういうことだから!異論は認めない!」と宣言しているように見えてくるから不思議。



本当は最初から薄(亳)氏で、後から梁氏を名乗っていたとか訒氏の血縁者とかいった設定を追加されたんじゃないかって思えてくる。