群盗対策

郡國大姓及兵長・羣盜處處並起、攻劫在所、害殺長吏。郡縣追討、到則解散、去復屯結。青・徐・幽・冀四州尤甚。
冬十月、遣使者下郡國、聽羣盜自相糾擿、五人共斬一人者、除其罪。吏雖逗留回避故縱者、皆勿問、聽以禽討為效。其牧守令長坐界内盜賊而不收捕者、又以畏愞捐城委守者、皆不以為負、但取獲賊多少為殿最、唯蔽匿者乃罪之。於是更相追捕、賊並解散。徙其魁帥於它郡、賦田受稟、使安生業。自是牛馬放牧、邑 門不閉。
(『後漢書』紀第一下、光武帝紀下、建武十六年)

光武帝の時、各地で群盗が起こっては長官を殺し、討伐軍が行くと解散してやりすごしてまた復活する、ということが多かったそうな。



光武帝は命令を下し、そういった群盗に対して仲間割れを奨励したり頭目の命を助けて真っ当な仕事に就かせるようにしたり、同時に官吏に対しても群盗を討てないことや、領域内で盗賊が発生したことに対する罰を大きく緩和し、討伐の功績で贖わせたり、盗賊に対して城を放棄したという場合でも罰せずに盗賊を討った功績だけで評価を決めることにする、といった命令を出した。




これにより盗賊の討伐が進むようになり、群盗は全部解散していったという。






昨日の記事の新王朝の対応と比べると猛烈な差を感じるところであり、これが早々に滅び行く王朝と再興されようとする王朝の差ということなのかもしれない*1




後漢光武帝のような対応はたぶん事態の収拾としてはかなり適切な良策なんだろうが、一つだけ気になる所があるとしたら、群盗に対して(一時的にだとしても)全国レベルで緩くなったことで、その後の一般人の中の群盗発生への心理的なハードルが下がったりしなかったのだろうか、という点だろう。



一度緩くなった菊門は、決して元には戻らないのであるから。

*1:もちろん、新も後漢もそれぞれに話を「盛って」いる部分があるかもしれないが。