伏皇后の母

獻帝伏皇后諱壽、琅邪東武人、大司徒湛之八世孫也。父完、沈深有大度、襲爵不其侯、尚桓帝女陽安公主、為侍中。
(『後漢書』紀第十下、献帝伏皇后紀)


後漢献帝の皇后であった伏氏の父は伏完といった。



この伏完は桓帝の娘である陽安公主と結婚している。


皇女華延熹元年封陽安長公主、適不其侯輔國將軍伏完。
(『後漢書』紀第十下)


この陽安公主は名を「華」といった。




后在位二十年、兄弟及宗族死者百餘人、母盈等十九人徙涿郡。
(『後漢書』紀第十下、献帝伏皇后紀)


伏皇后は最終的には曹操らによって「排除」されたわけだが、この時に伏皇后の母「盈」は配流されたという。




伏皇后の母が「盈」ということは、伏皇后の母は陽安公主(名は「華」)ではないのだろう*1






(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。既無任・姒徽音之美、又乏謹身養己之福、而陰懐妒害、苞藏禍心、弗可以承天命奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔、其上皇后璽綬、退避中宮、遷于它館。嗚呼傷哉!自壽取之、未致于理、為幸多焉。」
(『後漢書』紀第十下、献帝伏皇后紀)

なお、曹操が作らせたと言われる献帝による伏皇后廃位の策書によると、「皇后は卑賎の身から登極した」といったようなことが言われている。



これについて、「伏皇后の母は少なくとも公主ではない」ということを前提にして考えてみると、伏皇后の母はあまり身分がよろしくなかったことからこのように言われたのではないか、という仮説が成り立つ(列侯を継いでいる父の伏完を「卑賎」とは流石に言わないだろうから)。




*1:「盈」が姓である可能性もあるが、それはそれでやはり公主(姓は「劉」)ではないことになる。