周子南君と列侯

還至洛陽、詔曰「祭地冀州、瞻望河洛、巡省豫州、觀于周室、邈而無祀。詢問耆老、乃得孽子嘉。其封嘉為周子南君、以奉周祀。」
(『漢書』巻六、武帝紀、元鼎四年)

漢の武帝は周王の子孫を「周子南君」に封じた。


これは封邑もある「列侯」と同等の待遇だったが、「侯」という号ではない。


どうやら「侯」>「君」であったようなので、なぜか通常の侯よりも一段下の地位に置かれたことになる。



丞相議之、(周)亞夫曰「高皇帝約『非劉氏不得王、非有功不得侯。不如約、天下共撃之』。今信雖皇后兄、無功、侯之、非約也。」景帝默然而止。
(『史記』巻五十七、絳侯周勃世家)


それが何故なのかと考えてみたが、これが関係しているんじゃないかと思う。



かの有名な周亜夫は皇后の兄を列侯にしてやろうという景帝の提案について「功が無ければ侯にはなれないという高祖(劉邦)の盟約がある」と言っているのだ。




ということは、武帝の時の周王の子孫は「周王の子孫である」以外に功績らしきものが皆無であるため列侯になることができず、一段下の「君」ということにされたのではなかろうか。