もう一つの解釈

文徳郭皇后、安平廣宗人也。祖世長吏。后少而父永奇之曰「此乃吾女中王也。」遂以女王為字。
早失二親、喪亂流離、沒在銅鞮侯家
太祖為魏公時、得入東宮
(『三国志』巻五、后妃伝、文徳郭皇后)


曹丕の皇后郭氏は、親を失い「銅鞮侯家」の保護下にあったという。おそらく奴婢とか妾とかになっていたということではなかろうか。




しかし、この「銅鞮侯家」というのは何者か。「銅鞮侯」なる列侯はこの時代に見当たらないと思う。勿論、だからといって有り得ないというわけではないが。




だが、もう一つの考え方もある。


惠賈皇后諱南風、平陽人也、小名旹。父充、別有傳。
初、武帝欲為太子取衛瓘女、元后納賈郭親黨之説、欲婚賈氏。帝曰「衛公女有五可、賈公女有五不可。衛家種賢而多子、美而長白。賈家種妒而少子、醜而短鄢。」
(『晋書』巻三十一、后妃伝上、恵賈皇后)

ここで晋の武帝司馬炎は衛瓘の家、賈充の家を指して「衛家」「賈家」と言っている。



それに合わせて先の「銅鞮侯家」を解釈すれば、「銅鞮にいる侯氏の家」と読む事も出来るではないか。


つまり、列侯ではなく、「侯」という姓の家、ということだ。






まあ正直言うと苦しい解釈かなと思うけど、そういう風に考える事も出来るじゃん、って思ってもらえれば幸い。