『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その7

その6の続き。


莽又曰「予前在攝時、建郊宮、定祧廟、立社稷、神祇報況、或光自上復于下、流為烏、或黄氣熏烝、昭燿章明、以著黄・虞之烈焉。自黄帝至于濟南伯王、而祖世氏姓有五矣。黄帝二十五子、分賜厥姓十有二氏。虞帝之先、受姓曰姚、其在陶唐曰媯、在周曰陳、在齊曰田、在濟南曰王。予伏念皇初祖考黄帝、皇始祖考虞帝、以宗祀于明堂、宜序於祖宗之親廟。其立祖廟五、親廟四、后夫人皆配食。郊祀黄帝以配天、黄后以配地。以新都侯東弟為大禖、歳時以祀。家之所尚、種祀天下。姚・媯・陳・田・王氏凡五姓者、皆黄・虞苗裔、予之同族也。書不云乎?『惇序九族。』其令天下上此五姓名籍于秩宗、皆以為宗室。世世復、無有所與。其元城王氏、勿令相嫁娶、以別族理親焉。」
封陳崇為統睦侯、奉胡王後。田豐為世睦侯、奉敬王後。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

王莽はまた言った。「予が以前摂皇帝だった時、祭祀の宮殿を作り、廟を定め、社稷を立てたことに神が報いて光が天上から降りてカラスとなり、また黄色の気がたちこめて輝き、それによって黄帝・虞舜の勲を表した。
黄帝から済南伯王まで、姓は五氏に分かれた。黄帝の二十五人の子のうち十二氏が姓を賜った。虞舜の先祖は「姚」の姓を受け、堯の陶唐氏の代では「媯」の姓を受け、周においては「陳」と言い、斉においては「田」と言い、済南においては「王」と言った。
予が思うに、初代である黄帝、始祖である虞舜は明堂において祭祀をしているが、祖宗の廟の順番を決めるべきである。祖廟を五、親廟を四つ立て、正妻を合祀する。黄帝を祭祀して天と合祀し、その后を地と合祀する。新都侯の東の屋敷を祠として時期に応じて祭祀を行う。天下の家々においても、それぞれの最も貴ぶ先祖を同じように祭祀するように。姚・媯・陳・田・王の五姓はみな黄帝・虞舜の末裔であり、予の同族である。『書経』が言わなかったか?「厚く九族を順序立てる」と。天下全体に対し、この五姓の名簿を秩宗に献上させ、彼らを宗室とする。代々徭役を免除して労役に従事させないように。元城県の王氏はこの五姓とは婚姻せず、親族関係を正すようにせよ」



陳崇を統睦侯に封じて陳の胡王の祭祀を奉じさせ、田豊を世睦侯に封じて斉の敬王の祭祀を奉じさせた。


王莽は自らを黄帝と舜の子孫であると規定し、その末裔たちをみな宗室であると定めた。



普通に考えてかなりの大盤振る舞いであろう。




孝元皇后、王莽之姑也。
莽自謂黄帝之後、其自本曰、黄帝姓姚氏、八世生虞舜。舜起媯汭、以媯為姓。至周武王封舜後媯滿於陳、是為胡公、十三世生完。完字敬仲、犇齊、齊桓公以為卿、姓田氏。十一世、田和有齊國、二世稱王、至王建為秦所滅。項羽起、封建孫安為濟北王。至漢興、安失國、齊人謂之「王家」、因以為氏。
文・景間、安孫遂字伯紀、處東平陵、生賀、字翁孺。
(『漢書』巻九十八、元后伝)


王莽が規定したところでは王莽は姚氏であった黄帝の子孫の虞舜の子孫で、虞舜は媯氏、更にその子孫が陳胡公、またその子孫が斉に行った陳敬仲(田完)で、いわゆる田斉の祖であったという。

田斉は最後の王である斉王建の後に項羽によって孫の田安が済北王となり、またすぐ国を失ったが、王となったことから彼らの一族は「王家」と呼ばれ、それによって「王氏」を名乗ったのだ、とのことである。



この節目に出てくる黄帝・虞舜・陳胡公・田完らは王莽からすると祭祀を続けるに値する先祖ということらしい。