『三国志』武帝紀を読んでみよう:その41

その40(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/15/000100)の続き。





二十年春正月、天子立公中女為皇后。
省雲中・定襄・五原・朔方郡、郡置一縣領其民、合以為新興郡。
三月、公西征張魯、至陳倉、將自武都入氐。氐人塞道、先遣張郃・朱靈等攻破之。
夏四月、公自陳倉以出散關、至河池。氐王竇茂衆萬餘人、恃險不服。
五月、公攻屠之。
西平・金城諸將麴演・蔣石等共斬送韓遂首。
(『三国志』巻一、武帝紀)

あれよあれよと言う間に魏武の娘は皇后に。



王莽もそういう事をしたが、王莽の場合はまだ少年の皇帝の皇后選びだった。今回は既にいた皇后を強制排除しているあたり、何というか業が深い。




并州のいくつかの郡は廃止されて新興郡なる郡に纏められた。実効支配できていた県・郷が著しく減っていたのだろう。

後漢末、天下騷動、羣臣競言胡人猥多、懼必為寇、宜先為其防。建安中、魏武帝始分其衆為五部、部立其中貴者為帥、選漢人為司馬以監督之。魏末、復改帥為都尉。其左部都尉所統可萬餘落、居於太原故茲氏縣。右部都尉可六千餘落、居祁縣。南部都尉可三千餘落、居蒲子縣。北部都尉可四千餘落、居新興縣。中部都尉可六千餘落、居大陵縣。
(『晋書』巻九十七、匈奴伝)


後漢末から魏にかけて、匈奴がかなりそのあたりにいたようなので、郡県を減らした事はその影響もありそうである。




魏武、今度こそ張魯を討伐。



その間に韓遂が首だけになってやってきた。

太祖崩、西平麴演叛、稱護羌校尉。(蘇)則勒兵討之。演恐、乞降。
(『三国志』巻十六、蘇則伝)

ちなみに、その首を持ってきた麴演は実は後に反乱する。