『漢書』韋玄成伝その11

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110619/1308410474の続き。

太僕王舜・中壘校尉劉歆議曰「臣聞周室既衰、四夷並侵、獫狁最彊、於今匈奴是也。至宣王而伐之、詩人美而頌之曰『薄伐獫狁、至于太原』、又曰『嘽嘽推推,如霆如雷、顯允方叔、征伐獫狁、荊蠻來威』、故稱中興。及至幽王、犬戎來伐、殺幽王、取宗器。自是之後、南夷與北夷交侵、中國不絕如綫。春秋紀齊桓南伐楚、北伐山戎、孔子曰『微管仲、吾其被髮左衽矣。』是故棄桓之過而録其功、以為伯首。及漢興、冒頓始彊、破東胡、禽月氏、并其土地、地廣兵彊、為中國害。南越尉佗總百粵、自稱帝。故中國雖平、猶有四夷之患、且無寧歳。一方有急、三面救之、是天下皆動而被其害也。孝文皇帝厚以貨賂、與結和親、猶侵暴無已。甚者、興師十餘萬衆、近屯京師及四邊、歳發屯備虜、其為患久矣、非一世之漸也。諸侯郡守連匈奴及百粵以為逆者非一人也。匈奴所殺郡守都尉、略取人民、不可勝數。孝武皇帝愍中國罷勞無安寧之時、乃遣大將軍・驃騎・伏波・樓船之屬、南滅百粵、起七郡。北攘匈奴、降昆邪十萬之衆、置五屬國、起朔方、以奪其肥饒之地。東伐朝鮮、起玄菟・樂浪、以斷匈奴之左臂。西伐大宛、並三十六國、結烏孫、起敦煌・酒泉・張掖、以鬲婼羌、裂匈奴之右肩。單于孤特、遠遁于幕北。四垂無事、斥地遠境、起十餘郡。功業既定、乃封丞相為富民侯、以大安天下、富實百姓、其規橅可見。


太僕王舜・中塁校尉劉歆が発議した。
「私が聞いたところでは、周が衰えると後の匈奴などの四夷が侵略してきましたが、宣王はそれを討伐したことで詩人に褒め称えられ、中興と呼ばれました。幽王は犬戎の攻撃で殺され、宗廟の祭祀の道具も奪われました。その後、南夷は北夷と境界を接するようになり、中国は首の皮一枚でつながっているだけでほとんど滅亡寸前でした。『春秋』の記すところでは斉の桓公は楚や山戎を討ったため、孔丘先生は「管仲がいなかったら我々は四夷の生活をしていたぞ」と言いました。だからこそ桓公の過失を捨ててその功績を記録し五覇の筆頭としたのです。
漢になると冒頓単于が強大になり中国の害となっていました。また南越の趙佗は越を束ねて帝を称していました。中国は平定されたとはいえ一年として安泰な年など無かったのです。一方に変事があれば残り三方がそれを救うため動くため、天下全部が動揺し害をなしていました。
文帝は金品を贈って和親を結んでいましたが、それでも侵略は止むことはありませんでした。防備や軍隊の費用などが問題となって久しく、太守や諸侯で匈奴や越と結んで反乱した者、あるいは殺された太守・都尉も数えきれないほどいました。
武帝は中国が疲弊し安泰な年もないことを悼み、大将軍たちを派遣して南越、匈奴、朝鮮、西域を征服しました。匈奴単于は孤立して砂漠の北に逃げ、四方の辺境は平和になり、郡を十以上も設立したのです。その功績が定まると丞相田千秋を富民侯に封建して天下が太平となり民が富み栄えるということを示したのです。その規模の広大さたるや注目すべきものがあります。


武帝廟廃止案に真っ向から反論する者がいた。

太僕王舜は車騎将軍王音の子。外戚王氏である。
中塁校尉劉歆は後の劉秀。超有名人である。


彼らは武帝匈奴ら四夷を討ち倒すという大きな功績があったことを述べる。


王舜たちの発言はまだ続くのだが、長いのでここで切る。