『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その16

その15(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180220/1519053160)の続き。




神爵元年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
三月、行幸河東、祠后土。
詔曰「朕承宗廟、戰戰栗栗、惟萬事統、未燭厥理。乃元康四年嘉穀玄稷降于郡國、神爵仍集、金芝九莖産于函徳殿銅池中、九真獻奇獸、南郡獲白虎威鳳為寶。朕之不明、震于珍物、飭躬齋精、祈為百姓。東濟大河、天氣清靜、神魚舞河。幸萬歳宮、神爵翔集。朕之不徳、懼不能任。其以五年為神爵元年。賜天下勤事吏爵二級、民一級、女子百戸牛酒、鰥寡孤獨高年帛。所振貸物勿收。行所過毋出田租。」
西羌反、發三輔・中都官徒弛刑、及應募佽飛射士、羽林孤兒、胡・越騎、三河・潁川・沛郡・淮陽・汝南材官、金城・隴西・天水・安定・北地・上郡騎士・羌騎、詣金城。
夏四月、遣後將軍趙充國・彊弩將軍許延壽撃西羌。
六月、有星孛于東方。
即拜酒泉太守辛武賢為破羌將軍、與両將軍並進。
詔曰「軍旅暴露、轉輸煩勞、其令諸侯王・列侯・蠻夷王侯君長當朝二年者、皆毋朝。」
秋、賜故大司農朱邑子黄金百斤、以奉祭祀。
後將軍充國言屯田之計、語在充國傳。
(『漢書』巻八、宣帝紀

神爵元年。





金城郡あたりの羌が反乱を起こす。



羌は匈奴と違いまとまりのない小集団が乱立している事から漢王朝が制御しやすい存在だったようだが、この時は漢の側が羌のリーダーたちをいきなり呼びつけて殺した事から羌を団結させてしまったという。ぶっちゃけ漢王朝の失政と言っていいのではなかろうか。



団結して大きな反乱になった事から、当時の漢王朝にとっては一大事であったようだ。



時(趙)充國年七十餘、上老之、使御史大夫丙吉問誰可將者、充國對曰「亡踰於老臣者矣。」上遣問焉、曰「將軍度羌虜何如、當用幾人?」充國曰「百聞不如一見。兵難隃度、臣願馳至金城、圖上方略。然羌戎小夷、逆天背畔、滅亡不久、願陛下以屬老臣、勿以為憂。」上笑曰「諾。」
(『漢書』巻六十九、趙充国伝)

この時後将軍趙充国が言ったのが「百聞は一見に如かず」という言葉。宣帝に対し、自らが将軍となり、現地に実際に行ってこの目で確かめてから戦略を献上します、と述べた。



趙充国は武帝の時代の李広利による大宛攻めに参加していたという大ベテランで、既に70歳を超えていた。


宣帝はそんな趙充国本人を行かせるつもりはなく、誰を派遣すればいいか聞くつもりで尋ねたところ「自分が行くのが一番」と言われたのである。