徙戎論その4

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110529/1306595018の続き。

漢興而都長安、關中之郡號曰三輔、禹貢雍州、宗周豐・鎬之舊也。及至王莽之敗、赤眉因之、西都荒毀、百姓流亡。建武中、以馬援領隴西太守、討叛羌、徙其餘種於關中、居馮翊・河東空地、而與華人雜處。數歲之後、族類蕃息、既恃其肥強、且苦漢人侵之。永初之元、騎都尉王弘使西域、發調羌氐、以為行衛。於是羣羌奔駭、互相扇動、二州之戎、一時倶發、覆沒將守、屠破城邑。訒■*1之征、棄甲委兵、輿尸喪師、前後相繼、諸戎遂熾、至於南入蜀漢、東掠趙魏、唐突軹關、侵及河内。及遣北軍中候朱寵將五營士於孟津距羌、十年之中、夷夏俱斃、任尚・馬賢僅乃克之。此所以為害深重累年不定者、雖由禦者之無方、將非其才、亦豈不以寇發心腹、害起肘腋、疢篤難療、瘡大遲愈之故哉!自此之後、餘燼不盡、小有際會、輒復侵叛。馬賢忸忲、終于覆敗。段熲臨衝、自西徂東。雍州之戎、常為國患、中世之寇、惟此為大。漢末之亂、關中殘滅。魏興之初、與蜀分隔、疆埸之戎、一彼一此。魏武皇帝令將軍夏侯妙才討叛氐阿貴・千萬等、後因拔棄漢中、遂徙武都之種於秦川、欲以弱寇強國、扞禦蜀虜。此蓋權宜之計、一時之勢、非所以為萬世之利也。今者當之、已受其弊矣。

漢が興ると長安を首都とし、関中を三輔と称しました。そこは『尚書』禹貢篇における雍州、周における豊・鎬です。
王莽が破れると、赤眉がそれに乗じて荒らし回り、長安、三輔は荒廃し民は逃げ去りました。
光武帝建武年間、馬援が隴西太守になって反乱した羌族を討つと、その残党を関中に移住させ、赤眉によって生まれた馮翊・河東の空白地帯に置いて中華の人間と一緒に住まわせました。
数年後、羌族は繁栄し、その強さを自負しつつも漢人の侵害に苦しんでいました。永初元年、騎都尉の王弘が西域に派遣される際に羌・氐を徴発して護衛に使おうとしたため羌族は動揺、反乱を扇動し合い、司隷・涼州の戎たちは同時に反乱して太守を殺し城邑を攻め落とすという事態となりました。
訒■が鎮圧の軍を率いましたが敗北し、戎たちは勢いを増したのです。南は蜀漢に入り、東は趙・魏まで略奪に現れ、軹関、河内へも侵攻してきました。
北軍中候朱寵が中央の五営の兵を率いて孟津で羌族を防ぎ、十年の内に中華、戎ともに大きな被害を受け、任尚・馬賢によって漢がなんとか勝利しました。
このように酷い被害を受けることになったのは、守る者の無策、将帥の才能不足によるものとはいえ、反乱が胴体や肘、腋といった中心部近くから起こったからではないでしょうか。熱が郄ければ治りにくく、できものが大きければ消えにくいようなものです。
その後も戦乱の残り火は消えず、たまに収まってもまた反乱が起こりました。馬賢はついには敗北し、段熲は西から東へと移りました。
雍州の戎は常に国の害となり、当時の戎の攻撃の中でも最大のものでした。
後漢末、関中は荒廃し、魏が興る頃には、蜀との境の戎たちはある者は魏、ある者は蜀に付きました。
曹操は配下の夏侯淵に反乱した氐族の阿貴・千万を討たせ、その後漢中の氐族を強制移住させて漢中を空にし、また武都にいた種族は秦川のそばに移住させました。戎の攻撃を弱め自国を強めると共に、蜀の攻撃を防ごうとしたのでしょう。これはその場限りの計略、一時の勢いによるものであって、何代も後の世代にまで利となるものではありませんでした。
今や、この害を受けているのです。

新から後漢、そして三国時代の事について。
馬援による羌族内徙のために羌族の反乱が酷いことになった、と前代の失敗を述べている。
そして、江統にとっての現代である西晋にあっては、曹操による氐族内徙がそれにあたるのだ、と主張していることになる。
なお『三国志』張既伝に、武都の氐族の集落五万余を強制移住させたと記されている。

*1:[陟+馬]。自分の環境ではこの字が出なかった。めんどくさいだけ、とも言う。