前回(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140408/1396883414)の続き。
建安十七年の馬超の反乱の前、涼州の人間である楊阜はこんなことを言っていた。
馬超之戰敗渭南也、走保諸戎。太祖追至安定、而蘇伯反河間、將引軍東還。阜時奉使、言於太祖曰「超有信・布之勇、甚得羌・胡心、西州畏之。若大軍還、不嚴為之備、隴上諸郡非國家之有也。」太祖善之、而軍還倉卒、為備不周。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)
曹操は馬超を追って安定に至っていたが、河間で蘇伯なる者が反乱を起こしたため、軍を戻そうとしていた。
そこで楊阜はこう言ったというのだ。
「馬超は韓信(?)英布のような勇猛さで羌・胡に信用されております。もし大軍が帰還して備えも薄いとなれば、きっと馬超は羌・胡と共に再起して涼州の諸郡は漢の支配するところではなくなってしまうでしょう。」
曹操はこの言葉を肯定しつつも、十分な備えをすることなく軍を引き上げた、という*1。
馬超の動向を予見し進言もしていたのに十分な対策が取られず、結果涼州が戦場となり刺史が殺されることとなった楊阜の心中はいかばかりか。
「このままではこのプロジェクトは上手くいかない。人の手当を要求します」と上司に伝えたのに上司は「君の言うとおりなんだけどねえ、いやあ予算がねぇごにょごにょ・・・とにかく頑張ってよ!」などとはぐらかすばかりで、結局やっぱり上手くいかずデスマーチ。
そんなことになったとしたら、その上司を、その会社を素直に敬愛していられるものなのだろうか。
自分なら絶対許さないであろう。少なくとも素直に愛社精神など持てるとは思えない。
太祖西征、田銀・蘇伯反、幽・冀扇動。
(『三国志』巻二十三、常林伝)
曹操が優先した蘇伯は、冀州で反乱し広がった勢力であったようだ。
対応を誤れば本拠地であるはずの冀州方面が危うくなるので、曹操としては優先するのもやむなしというところだろう。
だが、楊阜や涼州の人間にしてみれば、曹操は内地を優先し、自分たちのいる土地を後回しにしたのである。
これは、涼州を放棄しようとまで考えたと言われる後漢王朝と変わるところがないものとして涼州の人間には見えたのではないか。
後漢一代にわたって涼州の人間に積もりに積もった中央への不信感に、曹操はもう一つ追加したということなのではないだろうか。
曹操からすればやむを得なかったかもしれない、だが確実に涼州を切り離し犠牲にするような戦略に晒されることで、涼州は魏の時代になっても諸葛亮の扇動と進軍によって動揺したり、羌の地盤が中心とはいえ敵地を姜維が闊歩したりするような状況を作り出した、と評価することもできるのかもしれない。