天下共に之を誅せよ

九月甲午、詔曰「夫婦人與政、亂之本也。自今以後、羣臣不得奏事太后、后族之家不得當輔政之任、又不得膻受茅土之爵。以此詔傳後世、若有背違、天下共誅之。」
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初三年)


「群臣は皇太后に政治の事を上奏しちゃダメ。皇后・皇太后の家は輔政の任に当たらせちゃダメだし、正当な理由がないのに爵位・領地を与えてもダメ。これは後世にまでずっと継続するようにね。もし違反するヤツがいたら、天下の人間みなでソイツをぶっ殺すようにね!」


魏の文帝曹丕はこんな詔を出した。
いわゆる外戚の禍を防ぐための措置であろう。


「若有背違、天下共誅之」とは魏王朝にとって最上級の金科玉条として未来永劫守れよ、という創始者文帝の強い命令であると言えるだろう。

では、こんな強い命令に違反した命知らずはいたんだろうか。


文帝の後を継いだ次の明帝は、母甄氏の甥に当たる甄像を列侯とした。
そこまではいい。だが甄像の死後、その後継ぎ甄暢が侯位を継いだのは当然であるが、その弟三人も列侯になっているのである。

これはまさに「膻受茅土之爵」ではないのか。


甄氏関連に限らず、卞氏、郭氏などにおいても文帝時代は何人もいなかった列侯が、明帝によって増加している。
皇后・皇太后の家に対する封爵については、明帝は文帝の命令を守ろうという気がななかったように思える。



文帝の言葉は実行されたのだろうか?