護羌校尉と戊己校尉

秦州。案禹貢本雍州之域、魏始分隴右置焉、刺史領護羌校尉、中間暫廢。及泰始五年、又以雍州隴右五郡及涼州之金城・梁州之陰平、合七郡置秦州、鎮冀城。
(『晋書』巻十四、地理志上、秦州)

獻帝時、涼州數有亂、河西五郡去州隔遠、於是乃別以為雍州。末又依古典定九州、乃合關右以為雍州。魏時復分以為涼州刺史領戊己校尉、護西域、如漢故事、至晉不改。
(『晋書』巻十四、地理志上、涼州


『晋書』地理志の説明によると、魏の護羌校尉は秦州刺史が兼任し、戊己校尉は涼州刺史が兼任したのだそうだ。




だがそもそも「秦州刺史」が魏代に存在していたのか、というのが疑問であると以前にも述べた





また、魏の涼州刺史が兼任したのがなんであったか、と言う点でも疑問がある。


文帝踐阼、以(温)恢為侍中、出為魏郡太守。數年、涼州刺史、持節、領護羌校尉。道病卒、時年四十五。
(『三国志』巻十五、温恢伝)

明帝以涼州絶遠、南接蜀寇、以(徐)邈為涼州刺史、使持節、領護羌校尉
(『三国志』巻二十七、徐邈伝)

魏において護羌校尉を兼任していたのは涼州刺史のようだ。



戊己校尉も『三国志』倉慈伝を見ると存在はしていたようだが、刺史と兼任だったと思われるような記述は『晋書』地理志以外には見つからない。





思うに、『晋書』の記述は晋代またはそれ以降での事情に基づいて作られ、詳しく確認することなく「魏もそうだった。以上」としてしまったのではなかろうか。


秦州の件も含め、ただ間違ったというよりは後代の常識に基づいてしまったミス、のような気がする。なんとなく。