貴人

漢制、帝祖母曰太皇太后、帝母曰皇太后、帝妃曰皇后、其餘内官十有四等。
魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有筯損。太祖建國、始命王后、其下五等。有夫人、有昭儀、有祜礱、有容華、有美人。文帝筯貴嬪・淑媛・脩容・順成・良人。明帝筯淑妃・昭華・脩儀、除順成官。太和中始復命夫人、登其位於淑妃之上。自夫人以下爵凡十二等。貴嬪・夫人、位次皇后、爵無所視。淑妃位視相國、爵比諸侯王。淑媛位視御史大夫、爵比縣公。昭儀比縣侯。昭華比郷侯。脩容比亭侯。脩儀比關内侯。祜礱視中二千石。容華視真二千石。美人視比二千石。良人視千石。
(『三国志』巻五、后妃伝)

三国時代の魏の後宮の制度について。

魏の後宮は、曹操の時代は王后、夫人、昭儀、祜礱、容華、美人といった地位があった。
曹丕の時代になると、貴嬪、淑媛、脩容、順成、良人が追加された。
曹叡の時代には淑妃、昭華、脩儀が追加され、順成は廃止された。

延康元年正月、文帝即王位、六月、南征、后留鄴。黄初元年十月、帝踐阼。踐阼之後、山陽公奉二女以嬪于魏、郭后・李・陰貴人並愛幸、后愈失意、有怨言。帝大怒、二年六月、遣使賜死、葬于鄴。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝)

だがこのように、後宮の貴婦人の称号として「貴人」というものがあったように見受けられる。
上記の魏の後宮の称号の中には「貴人」は見当たらない。


この「貴人」という称号は後漢に始まるようだ。

及光武中興、斲彫為朴、六宮稱號、唯皇后・貴人。貴人金印紫綬、奉不過粟數十斛。又置美人・宮人・采女三等、並無爵秩、歲時賞賜充給而已。
(『後漢書』本紀巻十上、皇后紀上)

魏の後宮で使われる「貴人」は後漢の制度がそのまま使われたものか、あるいは正式な名称としては消えたが皇帝の寵姫を示す通称として使われていたのか、どちらかだろうか。
前者だとすれば、当初使われた「貴人」の号がどこかの段階で廃止されたことを『三国志』后妃伝は書洩らしたのかもしれない。