荀か苟か

尚書僕射司馬宣王・常侍王象・荀緯請(楊)俊、叩頭流血、帝不許。
【注】
魏略曰、王象字羲伯。既為俊所知拔、果有才志。建安中、與同郡荀緯等倶為魏太子所禮待。
(『三国志』巻二十三、楊俊伝)

魏の文帝に殺されそうになった楊俊を司馬懿・王象と共に助命嘆願した河内郡の「荀緯」という者がいる。


自潁川邯鄲淳・繁欽・陳留路粹・沛國丁儀・丁廙・弘農楊脩・河内苟緯等、亦有文采、而不在此七人之例。
【注】
儀・廙・脩事並在陳思王傳。荀勖文章敍録曰、緯字公高。少喜文學。建安中、召署軍謀掾、魏太子庶子、稍遷至散騎常侍・越騎校尉。年四十二、黄初四年卒。
(『三国志』巻二十一、王粲伝)

あれ?これもしかして同一人物?


この王粲伝の方に載っているのは「苟緯」、「いやしくも」の字であって「荀子」の字ではない。



しかし出身や経歴などからすると同一人物の可能性は大いにありそうだ。つまりどちらかの伝の姓が間違っている。




それにしても、この「荀緯」、楊俊を助命できなかった翌年に死んでいるのか。実は王象も楊俊の後を追うように死んでいるので、楊俊事件の当事者たちは楊俊・王象・荀緯が次々と死んでいったという事なのか。


そして一人生き続ける司馬懿