建安十七年の魏郡

割河内之蕩陰・朝歌・林慮、東郡之衛國・頓丘・東武陽・發干、鉅鹿之廮陶・曲周・南和、廣平之任城、趙之襄國・邯鄲・易陽以益魏郡。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十七年)

後漢末建安十七年、魏郡に十四もの県が他郡から移管されるという決定があった。



これにより魏郡は他の郡よりもかなり多くの領県を持つこととなる。





翌年は曹操が魏公になる年であるから、これは曹操の魏公封建のためになされたことではないか、と思っていた。





だがよく考えてみると、実はちょっと変に思うところがある。

今以冀州之河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡、封君為魏公。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十八年)


曹操が封建された魏公国は十もの郡によって構成されたが、良く見るとそこには魏郡に県を分け与えた郡がいくつも含まれているのだ。



魏公国として考えると、十七年の措置によって増加した曹操の領邑は四県しかなかったことになる。





ということは、実は十七年の魏郡拡大は魏公封建とは別の狙いがあった可能性があるということではないか。






思えば、建安十七年といえばまだ荀紣が健在で、尚書令であったころと思われる。


ということは、十七年の魏郡拡大措置はあの有名な魏公の件と違い、荀紣も問題視しなかったということになるだろう(問題視したなら決裁が通らなかったと思われる)。



獻帝春秋曰、(董)昭與列侯諸將議、以丞相宜進爵國公、九錫備物、以彰殊勳、書與荀紣曰・・・(中略)・・・今曹公遭海內傾覆、宗廟焚滅、躬擐甲冑、周旋征伐、櫛風沐雨、且三十年、芟夷羣凶、為百姓除害、使漢室復存、劉氏奉祀。方之曩者數公、若太山之與丘垤、豈同日而論乎?今徒與列將功臣、並侯一縣、此豈天下所望哉!」
(『三国志』巻十四、董昭伝注引『献帝春秋』)


魏公封建の首謀者と目される董昭は、こんなことを言っていた。


「曹公は大功があるのに他の諸将と同じ県侯ではいかん」と。



さて、県侯の一段上はなんだろうか?

一郡に封じられることではないだろうか。




もしかすると、魏郡増量というのは、実は曹操をこの董昭の言によって「魏郡を領域とする郡侯」に昇格させるための措置なのかもしれない。

もちろん、これは典拠と言えるもののない仮説であるが。





董昭にとっては九錫や広大な領土を持つ諸侯への封建はいったんあきらめることになるが県侯から郡侯への昇格を果たすことになり、荀紣にとっては逆に郡侯への昇格については妥協するが九錫などの決定的な部分は沙汰やみにできるという、いわば妥協の産物である。



妥協だから荀紣もそこは通したのであろう。




だが、政情の変化により荀紣が政治の舞台からも人間界からも姿を消すと、妥協すべき対象がいなくなったことになるため、董昭の主張がほぼ全面的に認められるようになったのではなかろうか。