なぜ翼漢侯となったのか

當塗康侯魏不害
(略)
侯堅居嗣、居攝二年、更為翼漢侯、王莽篡位、為翼新侯、莽敗、絶。
(『漢書』景武昭宣元成功臣表)

この当塗侯魏堅居は王莽の居摂年間に「翼漢侯」に改称され、王莽が簒奪すると「翼新侯」となった。

漢、新を翼賛するというような意味だろうが、何故この当塗侯だけがこんな特別措置を受けているのだろうか。
この名称には明らかに特別な意味を含んでいる。

この「当塗」は九江郡の地名なのだが、これを思い出す人も多いだろう。

(光武)帝患之、乃與(公孫)述書曰「圖讖言『公孫』、即宣帝也。代漢者當塗高、君豈高之身邪?乃復以掌文為瑞、王莽何足效乎!君非吾賊臣亂子、倉卒時人皆欲為君事耳、何足數也。君日月已逝、妻子弱小、當早為定計、可以無憂。天下神器、不可力爭、宜留三思」署曰「公孫皇帝」。述不荅。
(『後漢書』公孫述伝)

時人有問「春秋讖曰代漢者當塗高、此何謂也?」(周)舒曰「當塗高者、魏也」
(『三国志』周群伝)

三国志』っ子なら知らない人の方が少ないであろう「代漢者當塗高」という予言である。
これは史書を素直に信じるなら遅くても新末には知られていたと思われる。
となると、前漢末頃には既に流布し始めていた予言だったのかもしれない。


もし前漢末に流布していたとすれば、その時点での「当塗侯」はこの予言のせいで変に注目されることになったことだろうし、予言を信じることで有名な王莽もそういう目を向けたことだろう。

王莽が「当塗侯」に帝位が禅譲されることを敢えて封じるために漢(新)への忠誠を示す名称に改めさせたのか、それとも当塗侯の方が敢えて嫌疑を避けるために改称を申し出たのか。

いずれにしろ、例の予言が当塗侯の改称の原因だったのではないだろうか。