安郷侯と平原侯

黄初二年、監國謁者灌均希指、奏「(曹)植醉酒悖慢、劫脅使者」。有司請治罪、帝以太后故、貶爵安郷侯。其年改封鄄城侯。
【注】
魏書載詔曰「植、朕之同母弟。朕於天下無所不容、而況植乎?骨肉之親、舍而不誅、其改封植。」
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)


かの曹植は、曹丕の世に「使者を脅迫した」といった罪を告発され、厳罰を受けるべきところを皇太后に免じて特に許されて「安郷侯」となった。



当時の魏の皇弟・皇子たちはほとんどが王となっているが、曹茂のように嫌われて「公」止まりの者もいた。しかし、「公」より下の「侯」であったのは殆どいない。




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そんな中、もう一人曹丕時代に皇子とされる人物でありながら「侯」であったとされるのが、あの曹叡こと烈祖様である。



この時の烈祖様は、このまま有罪で消されかねなかった曹植と同等の地位だった。




こう考えると、彼が父に殺されるのではないかと思っていたらしい母鹿と子鹿の話(『三国志』明帝紀注引『魏末伝』)も、より納得いくというものだ。


おそらくは処されても不思議ではなかった曹植と同等の地位なのだから、今より下はもう死しかない、ということだ。