扶蘇と曹彰

其年七月、始皇帝至沙丘、病甚、令趙高為書賜公子扶蘇曰「以兵屬蒙恬、與喪會咸陽而葬。」書已封、未授使者、始皇崩。・・・(中略)・・・趙高因留所賜扶蘇璽書、而謂公子胡亥曰「上崩、無詔封王諸子而獨賜長子書。長子至、即立為皇帝。而子無尺寸之地、為之奈何?」
(『史記』巻八十七、李斯列伝)


秦の始皇帝臨終の際の話からすると、死にゆく皇帝の元に一人呼び寄せられた皇子が次の皇帝になるのだ、ということとされている。


太祖東還、以(曹)彰行越騎將軍、留長安太祖至洛陽、得疾、驛召彰、未至、太祖崩。
(『三国志』巻十九、任城威王彰伝)

死にゆく曹操曹彰を呼び寄せた。



無論、始皇帝の時と違って別に太子がいるし、状況が同一なわけでもないのだから、曹操が同じ気持ちで呼び寄せた、とは限らない。違う可能性の方が高いだろう。



とはいえ、上記の始皇帝の故事を引用して「敢えて呼び寄せられた曹彰が公子扶蘇のように太子となるべきというのが魏王の遺志に違いない」などと言う余地が出来てしまったのは間違いないと思う。


時鄢陵侯彰行越騎將軍、從長安來赴、問(賈)逵先王璽綬所在。逵正色曰「太子在鄴、國有儲副。先王璽綬、非君侯所宜問也。」遂奉梓宮還鄴。
(『三国志』巻十五、賈逵伝)


だからこそ、賈逵は曹彰が魏王の璽綬のありかを訊ねた時にガチで拒絶の態度を示したのだと思う。



魏王の璽綬を確保したいというのは、魏王になりたいと言っているようにも感じられるわけで、扶蘇のように敢えて呼び寄せられた曹彰始皇帝扶蘇の話をなぞろうとしている(そしてそれは確実に魏国にいる太子曹丕との間で争いになる)、と感じるのも止む無しなのである。