初、太祖久不立太子、而方奇貴臨菑侯。丁儀等為之羽翼、勸(衛)臻自結、臻以大義拒之。
及文帝即位、東海王霖有寵、帝問臻「平原侯何如?」臻稱明徳美而終不言。
(『三国志』巻二十二、衛臻伝)
三国時代の衛臻は、曹植が曹操に寵愛されていた時、曹植一派から味方に引き入れようと打診されたが拒絶した。
その後、文帝曹丕が後継者となり魏の皇帝となった後のこと、曹丕は自分の子供の中でも東海王霖を寵愛した。
そんな折、曹丕は衛臻に「平原侯はどうであろうなあ?」と尋ねたという。
衛臻は平原侯の徳を称揚し、それ以上は何も言わなかった。
さて、ここの「平原侯」とはいったい誰のことか。
曹植が初めて受けた侯は「平原侯」である。だが、上記の記事内で彼のことは「臨菑侯」(平原侯の後に転封された)と呼ばれている。
それに魏の時代には彼は王になっている。
つまり曹植ではない。
では誰のことか。
愍懷太子之廢也、(閻)纘輿棺詣闕、上書理太子之冤曰・・・(中略)・・・昔太甲有罪、放之三年、思庸克復、為殷明王。又魏文帝懼於見廢、夙夜自祗、竟能自全。及至明帝、因母得罪、廢為平原侯、為置家臣庶子、師友文學、皆取正人、共相匡矯。兢兢慎罰、事父以孝、父沒、事母以謹、聞于天下、于今稱之。・・・
(『晋書』巻四十八、閻纘伝)
晋の閻纘は当時の皇太子廃嫡について命懸けで太子弁護を行った。
その中で「明帝は母の事で罪を得て廃位されて平原侯になりましたが、彼のために庶子、師友、文学といった家臣を置き、しっかりした者を選んで彼を矯正しました。そこで親孝行として有名になったのです。」と述べている。
魏の明帝曹叡は平原侯になったというのである。
魏明帝初為平原侯、(何)曾為文學。
(『晋書』巻三十三、何曾伝)
なるほど、上記2つの「平原侯文学」は後の明帝であるところの曹叡の家臣であるように思われる。
曹叡の本紀、つまり『三国志』明帝紀では平原王になったことと母親が誅されたために後継者とされないでいたということまでしか書かれておらず、平原侯にまで格下げされたとはなっていない。
だが、『晋書』閻纘伝や何曾伝、『三国志』毌丘倹伝を見る限り、曹叡は平原侯だった時期があったものと考えざるを得ない。
おそらく、父曹丕の皇后となった郭皇后との折り合いが悪くなったことで降格されたのではなかろうか。
明帝紀注の『魏末伝』には曹叡が廃嫡どころか命をも失うものと覚悟していたと考えられる話があるが、これも王から侯にまで降格されていたという背景があったとすればよりわかりやすい。
侯だったとすれば、当時いた文帝の皇子の中で唯一王ではなかったことになるのだ。次に待っているのが死ではないかと思うのも無理はないだろう。