陳郡の戸数

以前の記事で書いたように曹操の「武平侯」時代の封邑は陳郡(陳国)の4県で最大30,000戸であった。



其年冬、詔諸王朝六年正月。其二月、以陳四縣封(曹)植為陳王、邑三千五百戸。
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)


曹植は烈祖様の時に陳郡の4県を封邑とする陳国王になったが、この時の戸数は3,500戸であった。



なお、当時の魏の諸侯王の封邑は大体こういった戸数である。





無論、武平侯の4県と曹植の陳王の4県は全くの別の県かもしれないので、単純な比較はできない。また、曹植の陳王の方は県全部が与えられておらず、戸数を「中抜き」されている可能性もある。




とはいえ、戦乱も収まりきっていない建安中期に1県平均で7,500戸だったのに、魏の中期と言える時期に1県平均で875戸となっており、10分の1近くまで減っていることになるのはずいぶんな差である。



素直に戸数だけを比較したら、陳郡(陳国)は魏になってから戸数が激減した事になってしまう。





あるいは、武平侯の戸数の方が何かおかしいのかもしれない。詳しい事は現時点では何とも言えないが。